一昨日イスラエル空軍が、不意に隣国レバノンのベカー高原にあるイスラム派組織ヒズボラの訓練施設を空爆し、昨年11月イスラエルとヒズボラとの間に停戦が合意されて以来、最多12名の死者を出した。
そしてイスラエル軍は、昨日もシリアの首都ダマスカスの国防省や大統領宮殿近くにある暫定政府軍の本部を不意打ちに空爆し、3人が死亡、30人以上が負傷した。テレビ放映されたこのダマスカスへの凄まじい空爆では多くのビルが炎上し、数字以上の犠牲者が出たのではないかと思わせるものだった。イスラエルに近いシリア南部では以前から武装グループや、イスラム派少数民族の諍いが絶えなかったが、ついにこれにイスラエル軍が乗り出してきた。これによって事態は益々複雑になり、イスラエルは周辺のアラブの国々と悉く紛争を起こしている状態である。まったくイスラエルという国は、相手国に対し何をしようと一向に悪びれる様子もなく反省するような国でもない。
シリアの要請を受け、国連は今日にも緊急会合を開く予定であるが、グテーレス事務総長は報道官を通じて、イスラエル軍のシリア空爆、及びゴラン高原への部隊再配置などについて非難する声明を出した。
世界各地で紛争、というより今や戦争だらけである。かつて世界に核の恐怖をばら撒いた最初の原爆実権が行われたのは、80年前の昨日アメリカ・ニューメキシコ州だった。単に核実験と言っていたが、この驚異的な核爆弾が実験後3週間の内に、広島と長崎に投下され、大きな被害を齎したのは多くの人が知っている。あまりの被害と後遺症が、その後の投下を止めさせてはいるが、現在も一方では更なる高性能の核兵器開発の研究を重ね、他方では良識ある核反対運動が、2度と使用してはならないと核兵器使用禁止の運動を長々と今後も絶えることなく続けられることであろう。
核に対する是非の考え方は、2通りあると思う。ひとつは、核保有国と非保有国と立場によって核保有の賛否が分かれることであり、これには、核保有国は他国には核を開発させず所有もさせずに核占有欲から、核による被害からも逃れようとしている。そのため核非保有国は、核保有国が核の開発を行うことに反対し、他の非保有国とともに核開発、核保有に反対を唱えている。
もうひとつは、原爆投下による加害者と被害者の立場の違いによって当然ながら考え方は正反対である。核爆弾を世界で唯一投下し、比類のない災禍を被災者に与えたアメリカは、広島、長崎へ原爆投下したことにより、併せて21万余人もの犠牲者に、後遺症で亡くなった人を含めると2つの都市で、合計50万人を超える犠牲者を生んだ。ところが、アメリカ国内では、原爆効果というか、原爆投下によって早期終戦となり、多くの人の生命が救われたと彼らなりの戦争早期決着の功績を自慢している。原爆がなくても日本の敗戦は目前だった。敢えてこのような過大な犠牲者が出る原爆を投下するのは、彼らの計算だっただけである。
核がこの世に存在する以上、これを失くすことは、最早不可能であろう。特に核保有国が自分たちの権利ばかり主張しているようでは、その希望は絶望的である。
日本という国は、アメリカの核実験場として使われ、終戦になり余命をつないだのはアメリカのお陰であるような振る舞いをこれまでアメリカにされて、日本はアメリカの言いなりになってきたが、いつまでもこのような両国関係で良いのだろうか。原爆投下により多くの犠牲者が生じたことに対して、アメリカに強く反省させることが必要ではないか。