2063.2013年1月5日(土) 終戦直後に朝鮮へ帰った同級生

 今朝の朝日新聞「声」欄に佐賀県唐津市に住む76歳の男性が国民学校3年生だった、終戦の年の秋に祖国へ帰って行った朝鮮人中学生のことを想い、その懐かむ気持ちを書いている。その朝鮮人中学生は学校で様々な差別を受け、つらかった気持ちを目に涙をためながら語って母国語で民謡「アリラン」を唄い、別れたそうである。今故国でどうしているだろうと優しかった年長の友を想いながら昔を偲んでいる。

 私にも似たような想い出がある。国民学校1年生の夏終戦を迎えた。疎開がらみの父の転勤で、房州の勝山町(現鋸南町)へ引っ越したのがその年の3月で、翌月国民学校へ入学して4ヶ月後には終戦となった。たった4ヶ月ではあったが、その年は歴史に残る敗戦となったせいで、その当時の印象は強烈に焼きついており、学校や町ぐるみの思い出は山ほどある。

 入学早々に近所の友だちの中に、朝鮮人金田くん(姓名の名は覚えていない)がいた。近くの山の麓の倹しい家屋に住んでいた。父親が何を生業にしていたのかは知らなかったが、彼は同級生の中でも元気が良く、いつもはきはきと答えて成績も良かった。そして終戦となったが、私たち子どもたちには敗戦の事実はほとんど知らされなかった。夏休みの終わりごろになって戦争が終わったと両親から聞かされた。毎日海で泳いでばかりいたが、わが家の前を金田くんが口笛を吹きながら歩いて行ったのを見た母が、「金田くんは朝鮮へ帰れるのが嬉しいのねぇ」と言っていたのをよく覚えている。2学期が始まった日、担任の青木正子先生から「金田くんは両親の故郷である朝鮮へ家族と一緒に帰りました」と話があり、狐につままれたような気持ちになった。金田くんとは仲が良かったので、さよならの挨拶もなしに別れてしまったことがちょっと悲しかった。あれから67年余が過ぎた。

 2008年11月に韓国東海岸の束草市で開かれた国際シンポジウムにパネリストとして招かれた時、現地で通訳としてアテンドしてくれた桂明洙さんに金田くんのことを話したことがある。桂さんの話では、そういう話は結構聞くことがあるそうである。桂さんは多分戦争直後で朝鮮への引揚げ船が慌しく出港したので、その気持ちがあっても別れの挨拶を告げる暇がなかったのではないかとしみじみ話された。

 それにしても金田くんは成績、性格とも優れていたから、祖国へ帰ってもそれなりに成功者の道を歩んだのではないかと思う。私のことなど忘れてしまったかも分らないが、会ってお互いの人生や考え方について話し合ってみたい。しかし、そうは思えども最早夢物語であろう。

 さて、転勤と言えば予定外の転勤延期のせいで、昨年4月以来家族と離れわが家に居候していた長男が漸く予定通り大阪へ転勤することになり、今日段ボール荷物を引き取りに来たクロネコ宅急便トラックに続き、しばらくして妻子の待つ奈良県生駒市へ向かった。いくら仕事で離れ離れになろうとも家族揃って暮らすのが、やはり一番の幸せだと思う。9ヶ月間毎朝早く家を出て、深夜に帰る強行スケジュールだったので、妻も何かと気を遣っていたが、それも今日限りで解放される。やっと一息つけることになった。親としては、もうこんな面倒見は好い加減に勘弁して欲しいとの気持ちがある。

2013年1月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com