昨年12月初めに共同通信社文化部・宮崎晃氏から、「高齢者海外旅行の心構え」と題して取材を受け、私なりの考えと持論をお話したところ、その取材記事が同社から全国の提携先地方新聞に配信され掲載された。昨日宮崎氏から現在までに掲載された12紙の記事をPDF化して添付で送ってくれた。夕方になって今日子どもが2歳の誕生日を迎えた新潟に住む二男から、一昨日の「新潟日報」にも掲載されていたと連絡があった。現時点で13紙に掲載されたことになる。
共同通信から取材されたのは初めてでもあり、どういう風に地方紙に掲載されるのか分らなかったが、掲載された地方紙各社によって、掲載の仕方に工夫を凝らしているのがよく分った。
文章と採用する掲載写真、イラストは変更することができないようだが、各紙なりに見出しに工夫を加え、特徴を出すように努めているのが分る。
私がことさら強調したのは、「臨場感を養い旅行者自らが危険を察知するアンテナを高くする」「海外旅行傷害保険に加入すること」だったが、ほとんどが表現を変えながらも見出しにその点を挙げてくれた。
早速友人らに「岩手日報」のコピーを添付送信した。
さて、最近小説を読む機会が少なくなったが、新聞の連載小説だけは読んでいる。購読している日経と朝日、朝夕刊の4つの連載小説を読んでいるが、このところの朝日の連載小説は全然面白くない。敢えて言えば、むしろつまらない小説を読まされている感じである。天下の朝日がどうしてもう少し真っ当な小説を選ぶことができないのか不思議である。
現在朝日の朝刊には「聖痕」という、いかにも怪しげなタイトルで下卑たイメージを与える小説が連載されている。現在までのあらすじは、主人公が幼いころ何者かに性器を切り取られ、以後普通の男性として生きることを諦めながらも、並優れた知能を活かしていとも容易に東大に入り、並外れた美男子のゆえに周囲の女たちから言い寄られながらも男嫌いの女性と結婚し、実妹を養子にして料理家として天才ぶりを発揮する話だが、そのアブノーマルな内容自体より作者・筒井康隆氏が文章を意図的に難解にしようとの思惑がミエミエで、どうもその姿勢が好きになれない。また、敢えて随所に難解な表現を散りばめようとするその意図がとりわけ理解できない。
「聖痕」のように難しい言葉や表現を使い過ぎる文体の流れには、読者はちょっと付いていけないのではないか。朝日も連載前の打ち合わせでその辺りの事情を承知していたと見え、末尾に毎回のように七面倒くさい注釈を記している。何と今日の注釈は7箇所、昨日に至っては実に13箇所にも上る。たった30行の文章に注釈が13箇所もあり、読んでは注釈でその意味を確認し、また読み進んでは注釈の繰り返しである。
愛読書のひとつであるショーロホフの「静かなるドン」にも注釈が多くて、№が現れる度に注記を見たが、同書の場合は難解な言葉というのではなく、時代背景や時代考証、句とか節の説明、解説だったので、反って理解が深まったのではないかと思っている。その点ではむしろその注釈は良かったと思う。
それに引き換え、新聞小説に「そげたつ」「食細」「息だわし」「孫外れ」「黄口も切れぬ」「連枝の昵」「ふたほがみ」「暗向」「傍目る」「息精張る」なんて、普段使われない言葉をどうして無理矢理使わなければならないのか、とんと分らない。作者は自らの迸る知恵に自己満足のあまり、読者を大海原で溺れさせようとしているとしか思えない。