世界の国々と同様に日本の政治、経済も、今トランプ政権の関税問題に振り回されている感じで、昨日再び訪米した赤澤経済再生相が日本時間の今朝アメリカの財務長官と話し合いを持ったところである。
しかし、国内に与える社会的な影響が大きいのはお隣の韓国で、昨日韓国大法院(最高裁)によって降された判決で大きな話題になっている。その韓国の最高裁判決とは、次期大統領選の最有力候補者である「共に民主党」の李在明前代表に対して公職選挙法違反の二審無罪判決を破棄し、高裁に差し戻した件である。大統領選は、来る6月3日に行われるが、現状で李在明氏が立候補出来るかどうか、微妙な判断となった。世論調査によれば李在明氏への支持は38%を獲得し、現与党の「国民の力」の韓東勲前代表の8%と金文洙前雇用労働相の6%を完全に圧倒している。李在明氏が大きくリードして李氏のほぼ独走状態だった。この他にも「国民の力」の韓悳洙前首相が出馬を検討しており、当分の間韓国の政界は穏やかならぬ政争が熱を帯びることだろう。大統領選まで残り1か月となったが、これから先の争いに注視したいと思っている。
さて、あるところから依頼されて、他愛もないテーマであるが、今「銅像」について書いている。いろいろ調べてみると「人間の像」も興味深い。我々の小学生時代には、ほとんどの学校に本を読みながら、背に薪を背負って歩いている勤勉な二宮金次郎像が建てられていた。私が通った2つの小学校にも校門を入った正面と、教職員室の前にそれぞれ金次郎の立像があった。それが、最近どこの小学校の校庭にも見られない。金次郎の実像は、戦後の民主主義教育の方針に合わないという背景があるらしい。「子どもが働く姿は勧められない」とか、「歩きながら本を読むのは危険」というように戦前の軍国教育では、むしろ推奨された教育の一環であるが、今日でもケースによっては十分受け入れることは考えられると思う。しかし、現代では歩きスマホに似た行為は認められないというのは当然であるが、こうして小学校唱歌に唄われた♪~親を助け、弟を世話し、兄弟仲良く孝行をつくす、手本は二宮金次郎♪が、唄われなくなり、その像も消えていく運命となったのには、若干寂しさを感じる。
仏教国日本では古来大きな大仏像などが多くの国民から崇められ、奈良や鎌倉の大仏座像が広く知られているが、近年になって大仏への視点が変わり、大きな大仏像が建設される事情には、宗教的に仏様に祈り教えを乞うような精神的なことよりも、外形的に大仏の大きさを競うような傾向が現れ、座像より立像が各地に建造されるようになった。世界的に見てもベスト10に入る大きな像の中には、120mの牛久大仏や、100mの仙台大観音の立像がある。ただ、これらは観光客を引き寄せる目的があるように思えて奈良や鎌倉大仏のように崇められる存在とは大分かけ離れているような気がする。
日本人の石像で、私自身一番驚いたのは、メキシコのアカプルコ市の海岸に海を背に建てられた支倉常長の立像を目にした時だった。確かに支倉常長は、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団で太平洋を横断し、その最初の上陸地がアカプルコだった。
その支倉常長像は、1973年に、常長生誕400年の翌年に仙台市がアカプルコ市に寄贈したものだったが、その後市内大通りに移転された。しかし、風化して、日系人がこれを心配して現地で運動して2010年再び海岸のPLAZA JAPON(日本広場)に、海を背に建てられた。
初めて見た時は、海岸砂浜のPLAZA JAPONに建っていたが、こんなところに地味な支倉常長の立像があることに感動したことも事実である。出来るならば、今一度想いを噛みしめながら支倉常長像を訪れて見たいものである。