大相撲初場所は、大関豊昇龍の優勝で幕を閉じたが、場所中にひとり横綱だった照ノ富士が引退を表明し、横綱がいなくなってしまった。そこへタイミングよく豊昇龍が優勝し、今日午前伝達式を済ませて豊昇龍が横綱へ昇進した。いつものことながら伝達式で相撲協会から使者を待っていた豊昇龍は、「気魄一閃の精神で精進いたします」と決意を述べた。これで来場所も引き続き、ひとり横綱が結びの一番に控えることになった。
それにしても、照ノ富士に続いてまたもやモンゴル出身力士が綱を張ることになった。モンゴル出身の横綱は、白鵬以来6人目である。力は横綱として備えていると思うので、大いに期待したいと思う。それにしても初場所は豊昇龍より綱取りでは一歩先んじていた筈の大関琴桜が、少々哀れである。九州場所で優勝し、初場所前には優勝争いは琴桜を中心に論じられてきた。その期待の琴桜は、体調万全と思われていたが、何と5勝10敗という散々たる成績で横綱への道は一時遠のき、3月春場所に負け越せば大関の地位からも陥落という背水の陣を敷かざるを得ない立場に追い込まれてしまった。琴桜は数少ない日本人横綱候補である。心機一転改めて横綱を目指して欲しいものである。
さて、新年になって昨年亡くなった友人のご家族からお葉書を受け取った。それが今年は3人もいる。その中に一昨日奥様からいただいたお葉書で最初の小学校時代の友人の永眠を知らされた。親友の死は辛く寂しいものである。終戦の年に、国民学校(現小学校)へ入学して以来の80年間の付き合いだった友人が遂に天へ召されてしまった。終戦となり、その後の荒んだ生活の中で気兼ねなく学校へ通って、ともに野球に夢中になっていたものだ。友人は5人兄姉弟妹で皆学校の成績も良く、事あるごとに父から友だちを見習いなさいと言われた。彼は5人姉兄妹弟だったが、私も5人兄弟妹だったせいか、妙に気が合った。家族同士も親しく、お互いに交流していた。学校では5年生の夏休みまでの交流で、その後は私が転校したために離れ離れになってしまった。それでも文通を通じて時折会ってもいた。
彼との一番の思い出は、商社に勤めてロンドン駐在員だった当時に、偶々私が経済視察団のお供でロンドンを訪れた時のことである。事前に久し振りに異国で会うのも好いなぁと思い、連絡を取りロンドンで食事をともにしたことである。家族同士も親しく、お互いの家を訪れてご家族にも親しくしていただいた。思い出すとキリがない。同い年でもあるので、私の運命もそう長いものではないと思っているが、こればかりは運命であり、神にお任せするだけである。
もうひとりの友人も同い年で大学の山仲間である。卒業して故郷の松山で地元の銀行に務めていたので、ずっと年賀状のやり取りを主に、時折手紙で現状を伝え合っていた。その彼が数年前に奥様と松山市内の施設に入って以来ほとんど交流がなくなってしまった。娘さんからのお葉書によるとあまり健康ではなかった様子が分かる。学生時代にともに北アルプスに登ったことが懐かしい。芥川賞作家の大江健三郎氏とは再従兄弟だと聞いていた。
私もこのところちょっと体調が優れないが、極力事前にチェックすべく人間ドックを受診し、クリニックに通い、医師のアドバイスに従って無理をしないよう健康管理に努めている。それにしても弱気にも以前はあまり感じなかった生と死を考えるようになったのは、親しい友人たちの訃報が増えてきたこともある。もう少し明るく前向きに進むべきであろう。