一昨日は「沖縄慰霊の日」だったが、63年前の1950年の今日、朝鮮戦争の火蓋が切られた。当時まだ小学5年生だったが、思い出はかなり印象強いものがある。夏休みが終わって直ぐ内房から転校した千葉市内の幕張小学校で、担任の湯浅和先生が授業中に朝鮮半島の地図を示して、毎日のように朝鮮戦争の話をしてくれて子ども心に関心を持った。当時新聞、ラジオで放送された朝鮮語の地名を面白がって覚えたことも懐かしい。映画館のニュースは朝鮮戦争がメインだった。その後北朝鮮軍に押されっぱなしだった韓国軍に国連軍が支援介入すると、電撃的な払暁の仁川上陸作戦に成功して形勢は逆転し、流れは一気に韓国・国連軍に傾いた。
これについて興味深い思い出話がある。湯浅先生が出されたテスト問題で、どうして国連軍は韓国軍を援助したのかという問いがあった。その回答に「平和のため」と一言書いてさえあれば、どんな文でも○をくれた。小学生になぜこんな政治的な問題を出したのか未だに不思議な気がしている。どういうわけだか、朝鮮戦争と言えば、この問いと連合軍最高司令官・マッカーサー元帥解任事件が思い出されてくる。
休戦になったのは、その3年後である。その直後に父の転勤により京都の中学へ転校した。次第に朝鮮半島について興味は薄らいで行った。久しぶりに朝鮮戦争について考えたのは、今から3年前韓国を旅行した時にガイドさんから話を聞いた時である。首都ソウルを東西に流れる漢江の北側と南側の不動産価格は遥かに南が高いそうだが、それは戦争が再び始まったら北からの流入者が入り込むのを防ぐため、橋を遮断することができて南の方が安全だからだそうである。ほかにも日本人が思ってもみない韓国人なりの発想と処世術で、戦争についての彼らの思い込みが分るそうである。
近年北朝鮮の度重なる挑発により、一触即発の状態に晒されることも再三である。今も休戦ライン付近では、ピリピリする緊張感に包まれている。北が異常とも言える特殊な国づくりを行い、非民主的な政治体制を敷いている現状では、いつ南北が衝突しないとも限らない。両国が開戦すれば、そのとばっちりは必ず日本にも及ぶことは言うまでもない。
今日の朝鮮戦争開戦63年の記念日に当り、くれぐれも紛争が起きないことを祈るばかりである。