60年安保闘争の年に「楢山節考」の作者・深沢七郎の「風流無譚」が「中央公論」12月号に掲載された。翌61年2月にその内容に憤慨した右翼の少年が嶋中鵬二・中央公論社長宅を訪れ、留守だった嶋中社長に代わり応対に出た夫人を傷つけ、お手伝いさんを殺害して世間を恐怖のドン底に陥れた。「風流夢譚」の内容があまりにも過激で、右翼を怒らせたことがその原因だった。確かに天皇や皇太子が無残に殺害される過激なストーリーは、その内容があまりにも不穏であるとして作品は長らく物議を醸した。著者の深沢は一時世間から姿を隠し、中央公論社は謝罪文を発表し、編集長が宮内庁に謝罪する有様だった。
一方で、言論の自由の擁護や、書き過ぎについて甲論乙駁の議論が戦わされた。吉本隆明や武田泰淳らは、深沢作品を擁護した。その後死傷者が出たことに深いショックを受けた深沢は、記者会見で涙を流し、「風流無譚」の書籍化を封印したと伝えられた。実際同書がその後世に出ることはなかった。ところが、最近になって当時の中央公論編集部次長の子息が同書の電子書籍版を発行した。著作権継承者が了解したからだという。しかし、深沢本人はどんな気持ちでいるだろうか。そして、それが結構販売数を伸ばしているという。これはあくまで電子書籍化ということで、通常の書籍としては現状では出版されない。
昨日の朝日夕刊に取り上げられていたこの関連記事を読み、何とも感慨深いものがあった。エポックメークな年に起きたこのテロ事件は、もちろん私自身よく憶えている。この事件の直後に長野県ラジオ局の街頭録音でこの事件に対する意見を尋ねられて応えた経験があるからである。ちょうど中央アルプス宝剣岳から下山した後に国鉄駒ヶ根?駅前でインタビューされ、内容はおぼろげながら、テロリストの少年と右翼の行動を非難したような記憶がある。安保騒動の後で日本中に反権力の空気と名残があり、まだまだ学生たちは社会改革へ気持ちが向かっていた。こういう動きを警戒した右翼勢力がいろいろな形で民主化運動を妨害し、反動化していた時代である。
こんな野蛮なことは決して許されることではないが、半世紀以上も経過すると懐かしいような気もするから不思議なものである。