ノン・フィクション「南の島の日系人大酋長の波乱万丈」を書くに当たって、ミクロネシアについて資料や学術書、ガイドブックなどをいろいろ調べている内に、ある薄倖の素晴らしい作家に出会うことができた。戦前南洋庁へ職員として入庁した高校の国語教師・中島敦である。この若き作家はすぐパラオの南洋庁に派遣され、当時の南洋諸島の島々を巡回しながら国定教科書のチェックなど教育指導に当たっていた。当時の南洋群島の習慣や風物詩などが彼の「南洋通信」にかなり具体的に紹介されており、随分文章作成に役立った。惜しむらくは中島は身体が弱く病気がちで太平洋戦争が勃発した翌年日本へ帰ってから間もなく亡くなった。33歳の若さだった。早世したため彼の作品はあまり多くないが、数少ない作品は粒ぞろいだ。「南洋通信」はもちろんだが、特に2つの短編代表作品は教育界でも注目を浴びている。
そのひとつが「山月記」である。知らなかったが、日本の高校の国語教科書には、この「山月記」が最も採用されているという。つい最近ある高校の国語教師が「『山月記』はなぜ国民教材となったのか」という好著を上梓して、それが新聞の読書欄に好意的に紹介されていたほどだ。確かに読んでみて滋味のある作品だった。
もうひとつの作品は「李陵」という短編で、「山月記」と同じように漢の武帝時代を舞台に、漢と匈奴との戦いの中で優れた武人李陵の行動と内面的な葛藤を司馬遷の記述を参考にしながら書き下ろしたものだ。
感心するのは、30歳になったか、ならなかったの若さで、これだけのストーリーを流れるがごとく書ける非凡な才能である。しかも漢文調で、難しい言葉遣いを駆使して縦横無尽に筆を使っている。いかに祖父が漢学塾を主宰して家系にも漢学を学んだ人が多かった家庭環境の中に育ったとは言え、その素養には舌を巻く。もし、もう少し長生きしたら、漱石や鴎外に匹敵する文豪となったかも知れない。今日「李陵」を読み終えて天才作家・中島敦の魂と構想力に感服した。
「李陵」の中にこんな気になる文言があった。最近の中国の反日感情を考えると思い当たる節がある。
「~漢の人間が二言めには、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行いをもって禽獣に近いと看做すことを難じて、単千は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貧ること、またいずれかはなはだしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と~」