昨日は趣のある旧暦「八十八夜」だった。そして今日は一転して最近生臭くなってきた民主主義の象徴「憲法記念日」である。昨今憲法に対する関心が高まってきたことは喜ばしいことであると思う。しかし、護憲、或いは改憲の声が高まってきた中で、最近とみに安倍首相の改憲志向が露骨に顕れてきて、姑息にも憲法解釈を変えてでも憲法改正へ向けて走り出そうとしている危険な傾向が見えてきたことが心配になってきた。
今日も朝からテレビを通じて有識者が憲法論議を交わしていたが、今の政府の危ういところは憲法改正一点に的を絞り、そのためには手段を選ばず猪突猛進しようとしていることである。
2006年第1次安倍内閣が成立して間もなく、首相は「憲法改正をいよいよスケジュールにのせるべく、リーダーシップを総裁としても発揮していく」と語った。そして、第2次内閣を成立させてからは少しずつ改正ムードを盛り上げ、今年3月には憲法に関して「戦後68年を経た後なお不磨の大典のごとくされているのは、やはり間違っているのではないか」と参院予算委員会で恐るべきことを述べた。この「現行憲法が不磨の大典のごとくされているのは、やはり間違っている」と考えること自体、首相の現行憲法へのアレルギーであり、不遜であり、大きな誤解である。第一不磨の大典であったことは、それが戦後日本の民主主義が損なわれなかったということであり、至極結構なことではないだろうか。
この他にも首相は3月に「憲法自体が占領軍の手によって作られたことは明白な事実」と語ったが、誤解も甚だしい。どうしてメディアでは、首相の言葉をそのまま疑問も抱かずそのまま報道するのか。この首相の思い込みは完全に間違っている。
昨年駒澤大学公開講座で観賞したNHKドキュメンタリー番組「焼け跡から生まれた憲法草案」では、終戦の年に憲法調査会がその草案を、高野岩三郎・東大教授、森戸辰男・元広島大学学長ら7人の学識者の手を煩わして作成させ、GHQの了解を得て現在の憲法の原案となった。GHQの監督下にあったとは言え、草案は日本のれっきとした超一流の学者たちの理念と構想によって考えられ作られたものである。こんな苦しい事情も知らずに、世襲のおかげで幸い総理大臣になることはできたが、世間知らずのお坊ちゃんが、真実を知らずに言われるまま占領軍によって作られたとか、日本と日本人の実態を捉えていないとか、良くも出まかせを言うものである。
安倍首相はある雑誌の対談でも「憲法前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」とまで言っている。それはそういう気持ちがあるから、そう思えるのであり、私にはそうは思えない。今の様子から察すると首相は、このまま憲法改正に向けて突っ走ることは明瞭である。
古賀誠・元自民党幹事長から「愚かなぼっちゃん」と揶揄されるほど、憲法改正について自らの考えだけに強く固執する首相は、安定した自民党の人気に胡坐を掻き、他人のアドバイスなんかまったく聞く耳を持たないほど傲慢になってきたようだ。あ~恐ろしいことである。