日本時間の今日明け方に行われたワールドカップの予選リーグ最終戦で日本は、コロンビアと戦い1-4で敗れた。大会参加前の意気込みはどこへやら、これで1引き分け2敗となり敢えなく予選敗退である。やはり世界は強い。特に中南米各国の抜きんでた強さには脱帽である。それに引き換えアジア勢の不甲斐なさは、出場4カ国合せて未だに1勝もできない体たらくである。
試合では日本チームは精一杯戦い、シュート数ではコロンビアを圧倒していた。前半は1-1で惜しい場面もあったが、終わってみれば3試合で勝ち点1、得点2、失点6というストレスの溜まる結果だった。前回の南アフリカ大会では決勝トーナメントへ進出しただけに、今大会はより大きな期待がかけられていた。確かに日本チームは年々力をつけ、今大会は密かに決勝トーナメント進出が期待されていたが、相手国も日本を上回るスピードで実力を向上させていた。
尤も今大会は優勝候補でもあった、前回優勝チームのスペインを始め、サッカー王国のイングランドやイタリアも決勝トーナメントへ進出できず、予選リーグで強国が姿を消す番狂わせが数多くあった。それだけ世界のレベルが向上して力の甲乙つけがたく、各国がお互いにしのぎを削る戦いの場となったということだろう。
早速「ワールドカップ余話」と題して来月の「JAPAN NOW観光情報協会」紙用にエッセイを書き貯めておいた。
さて、東京オリンピックの翌年に製作された市川崑監督による記録映画「東京オリンピック」をビデオで観た。作られた当時はなんやかんやと喧しい批判があった点でも注目を集めた記録映画である。この映画が上映されたとき、時の建設大臣が「訳がわからん、作り直せ」と命じて、別に「公式」記録映画が作られたと言ういわく付きの作品でもあるが、結果的に空前の観客数を記録した。そんなこともあり、前から観てみたいと思っていたところ、先日テレビで放映したので録画しておいた。
半世紀も経つと画面も昔日の感を覚えるほどだが、懐かしい光景がいくつも観られて2時間半の間かぶりつきだった。最後のマラソンを甲州街道傍で直接見たことが印象に残っている。残業中だったが、会社から甲州街道まで走って行き、優勝したアベべ・ビキラ選手や銅メダルの円谷幸吉選手が目の前を走り過ぎるのを見た。
その3年3か月後の1968年1月8日、エチオピア・アジスアベバ市内のハイレ・セラシェ皇帝病院内を歩いていて偶然にもアベべ選手の親戚の医学生、ウォルデ・マルタム・ケベデさんに会い、アベベ選手や円谷選手について話し合ったことが懐かしい。その時ケベデさんがアベべに会えるよう電話をしてくれたが、生憎その時アベべは海外へ出かけていて会えなかったことが返す返すも残念だった。
そして時も時、その数時間後円谷選手は自衛隊宿舎内で突然自らの命を絶った。メキシコ・オリンピックを間近に控えて円谷選手への過重な期待が重圧となり、憐憫の情を催す遺書を残して27歳の若さで彼岸へ旅立った。旅行中でその悲報を知らないまま、1週間後に帰国してその衝撃の事実を知り、ショックを受けたことが思い出される。
走り幅跳びに出場した東急の山田宏臣さんも懐かしい人である。まだ若くして亡くなった山田さんとは仕事のうえでも交流があったが、ソウルで開催された旅行業界の国際コンベンションPATA総会に参加し、同じホテルに泊まって長々と話合ったことも思い出深い。
賛否いろいろあろうが、1964年の東京オリンピックを知り当時の感慨に耽るには、これほど的確な記録映画はないと思う。