4985.2021年1月4日(月) 信長は光秀に殺されなかった。

 新型コロナウィルスの感染拡大は一向に収まらない。医療関係者らが医療崩壊を懸念する中で東京を中心とする首都圏自治体の4人の知事が、政府の西村経済再生担当大臣に緊急事態宣言の発出を促したが、発出すべく検討を始めるといういつもながらの決断の遅い言葉だった。菅首相も発出を検討すると言うばかりだった。

 この政府の対欧に対して、各党はそれぞれこう述べている。枝野・立憲民主党代表は「判断は遅きに失した」と述べ、志位・共産党委員長は、政府のコロナ対策は無為無策と批判し、馬場・日本維新の会幹事長は、緊急事態宣言は先月出すべきだったと政府を非難している。

 一番感染者が増えている東京都は、昨日も今日もこれまでの曜日では過去最多を更新し、重症者数昨日から7人増えて108人となり過去最多となった。全国的にも17人増えて731人で過去最多である。驚いたことに今日都立高校でクラスターが発生した。生徒41人、教職員4人が陽性反応を示した。予断ならない事態になりつつある。

 今年受け取った年賀状でもほとんどコロナについて触れて、1日も早くコロナが終息し、以前と同じように会って話をしたり飲食をともにしたいと書かれている。

 果たして緊急事態宣言はいつ発せられるだろうか。

 さて、今朝の朝日新聞に古文書により本能寺の変(1582年)で明智光秀は、主君織田信長を裏切って本能寺を急襲し殺害したとされていた定説が、実は光秀は鳥羽にいて本能寺にはいなかったという記録が明らかになり、史実が変えられる可能性が明らかになったという。そもそも光秀本人が本能寺を襲ったと考えられたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見という人物が認めた日記(1570~92年)にそのように記されていたとみられていたからだが、それは元々噂を書き残した可能性が指摘されてもいた。

 光秀が本能寺に行かなかったことは、加賀藩主前田家に仕えていた兵学者・関屋政春が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」に書き残されていた。実際上巻に「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」とある。この古文書にはその他にも、本能寺の変の描写があるそうだが、複数の研究者に依れば、この古文書の記述は信憑性が高いとみられ、今後の研究を通じて、本能寺の変に新たな解釈が加わるかも知れない。重要な資料であり、早く全容が紹介されるよう金子拓・東大資料編纂所准教授も期待している。

 昔の史実も歳月が経つにつれて、新事実が発見されたり解明されて歴史の修正が行われることは時として起こり得る。だが、近年では、学校で学び、暗記として「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」とまで覚えた鎌倉幕府成立の史実が1192年から1185年に変更されたことは驚きだった。これは事実とは違った本能寺の例とは異なり、史実が間違っていたわけではなく、歴史的変革の事実をどう捉えるかという歴史研究者の判断に依ったものであるが、これほどの変更は衝撃的だった。今では「いいはこ(1185)作ろう鎌倉幕府」と暗記させられているようだが、専門家の責任は重い。現実には、帝国書院などの検定教科書では、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても「名実ともに『完成した』」という表記をしている。

 それにしても織田信長が明智光秀に殺されなかったとしたら、現在放映中のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、どういう結末になるのだろうか。

2021年1月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com