4945.2020年11月25日(水) 三島由紀夫逝って早や半世紀

 50年前の今日作家の三島由紀夫が自決した。ちょうどその日アメリカ人講師から英会話を習っていて途中から教室に入室した女性が、今三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で亡くなったと驚いた顔で話してくれた。私を含め数人の受講者はもう英会話も上の空だった。何といっても死に方が衝撃的で異常だった。この現代という時代に武士と同じ切腹で自らの命を絶つとは恐れ入った。三島の死については、当時各界各層の人があれやこれやと感想を述べていたが、死人となった三島の本心は端で臆測するしかない。

 昨晩NHK「アナザーストーリー」で市ヶ谷の自衛隊司令部で、当日その死の現場にいた元毎日新聞の徳岡孝夫記者が感慨深げに語っていた。三島から信頼されていて死の直前に盾の会のメンバーから手渡された三島からの最後の手紙を紹介していた。この死を誤解されないよう世間にありのまま伝えて欲しいという三島の願いだった。徳岡氏はその後「サンデー毎日」に三島との交流を手記として発表した。

 三島の師だった川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞したが、その前年辺りから日本の文学界と三島は、三島自身が最初の受賞者になると期待していた。徳岡氏の話では、三島は事前に授賞後の対応も考えていたというから相当確信があったようだ。受賞者発表前に殺到するだろうメディアから逃れるためにタイまで逃れ、当時タイ支局に駐在していた徳岡氏と会ったという。

 結果的に三島はノーベル賞受賞を逸した。かなり失望したようだが、それが自決の理由ではないと思う。彼の考え方としては、戦後日本は経済復興こそ果たしが、日本人は浮かれて日本のあるべき国のありようを忘れていると嘆いていた。意外だと思ったのは、あれほど右翼的な言動をしていた三島が、昭和天皇に対して敬意の気持ちを抱かなかったことである。そこには、天皇が三島の考える日本という国とは異なる言動をしたことに失望したのだ。それはマッカーサーの前で天皇が人間宣言をしたことであり、その点を非難すらしていた。

 彼は身体が軟弱とのコンプレックスに苛まれた末に、肉体改造を行い筋肉隆々の身体にした。それでいながら昔風の切腹という時代離れした儀式で「盾の会」のメンバーを道ずれにして、世間を大いに騒がせた。決して褒められるような所業ではない。作家としては、大作を次々と書き、多くの読者層を広げたが、ひとりの大人の行動としては残念な結果になった。

 私自身「金閣寺」と「潮騒」の僅か2冊しか読んでいないので、大きなことは言えないが、いずれも興味深い作品だった。天才肌の作家だったと思う。それにしても真の死因も分からないまま惜しい作家を失ったものである。

 さて、亡くなったと言えば、昨日元茨城県高校野球の監督として、春1度、夏2度全国制覇した木内幸男さんである。享年89歳だった。木内さんが初めて甲子園で優勝したのは、県立取手二高を率いた1984年夏の甲子園だった。当時茨城県教員海外研修団の事前研修会を県庁内で行っていて、優勝直後には県庁内に大きな優勝祝賀の垂れ幕が掲げられ、県の先生方も喜んでおられたことが強く印象に残っている。その時のエース石田投手のサイン入り色紙をその後、研修に参加した石田投手の恩師からいただいたことを懐かしく想い出す。

2020年11月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com