今日は文化の日である。私にとっても記念すべき誕生日であり、今日で76歳となった。いよいよ来年は喜寿である。奇しくもミクロネシア連邦の独立記念日でもある。このほど上梓した「南太平洋の剛腕投手」がそのミクロネシアを舞台にしていることから、ミクロネシアとは運命的な糸で結ばれているように思えてならない。
文化の日とあって新聞には秋の受勲者の名前がずらりと掲示されている。今年は4086人が選ばれて受勲者となった。昔陸軍と海軍で功績を上げた軍人が最高位の勲章として授けられた金鵄勲章のような圧倒的権威があった勲章に比べれば、今ではその価値はピンからキリである。最高勲章は旭日大綬章というのだそうだが、それは中々難しいにしても一般的には公共の事業に携わっていれば、ある程度の年齢に達すればいただけるようだ。しかし、公務員と民間人の間に大きな差があるのも事実である。
結局官吏になるか、公務員になるか。いずれにしても民間人はよほどの功績を上げないと評価もされないし、勲章ももらえない。この辺にも民間人は恵まれない伝統がある。勲章については、拙著「南太平洋の剛腕投手」の中で、主人公の大酋長が勲章をもらい損なったことを書いた。大酋長自身も勲章に憧れたが、結局もらうことはできなかった。金鵄勲章についてそれをいただいた山本五十六元帥と南雲忠一海軍大将についても拙著の中で触れた。
まあ我々のような勲章とはまったく関係のない人間は無頓着でいられるが、この勲章をもらえるか、もらえないかの境界線近くにいる人々にとっては必死のようで、売り込みにすべてを注ぎ込んで賭けるようだ。
しかし、この勲章制度っていうのはどんなものだろうか。戦後一旦は制度を止めた筈である。それなのに戦後社会が安定するに従い、ないものを欲しがるようになりいつの間にか復活してしまった。勲章制度のくだらない点は、かつてのソ連や今の北朝鮮の最高幹部の軍服に、これ見よがしにつけられている多くのきらびやかな勲章を見てみればそのアホらしさは見当がつく。アホらしさしか思い浮かばない。黙っていてもらえるならそれも良いが、権威むき出しのそれを欲しがるようになってはおしまいのような気がするが、どうだろうか。私には勲章制度なんて必要ないように思える。