4613.2019年12月29日(日) 年賀状を虚礼廃止例に挙げるとは?

 令和最初の年もいよいよ押し詰まってきた。年賀状も郵送して今日は妻の暮れの買い物にお付き合いした。スーパーの売り場はやはり混雑している。しかし、これはこれで年末らしい絵になる。

 一昨日の朝日朝刊のコラム欄「経済気象台」に、年賀はがきと喪中はがきについて書かれていた。年賀はがきの発行枚数が15年前に比べてほぼ半減しているという。それを踏まえたうえで、コラムの筆者は「虚礼廃止がうたわれながら惰性もあって年賀はがきをやめられない」と書いている。筆者は少し誤解しているのではないだろうか。そもそも年賀はがきは虚礼でも何でもない。親しい人たちに日ごろのご無沙汰がてら新年を迎えるに当たって近況を知らせるために心を込めて書くものである。当然肉筆で書くべきものであり、私自身のこだわりとしてはボールペンではなく万年筆で書きたい。筆者はインターネット時代にアナログの慣行を続ける意味があるだろうかとまで問うている。それでいて「人工的な印刷だけで肉筆のメッセージがなければ、新年の晴れやかな気持ちを伝えるには程遠い感がある」と商売上の立場まで挙げて私見を主張し、言うことも矛盾しているように思う。どうも本音が読み取れない。

 年賀状は、本来親しい人にすべて肉筆で心を込めて書くものだと思う。ただ、枚数が多ければ多いほど書くのに手間暇がかかる。それを少しでもセーブするために一部を印刷することは許されると思う。そして、出来れば空欄に気持ちの通じる言葉を書けば一層情愛が通いあう。年賀状が個人的な付き合いではなく、仕事上のコミュニケーションならば筆者の懸念しているように、そろそろ他の手段を考える必要があるのかも知れない。

 筆者は喪中はがきについても、穿った理解をしている。喪中はがきを年賀状代わりにして、遠い縁戚の不幸まで対象にして毎年送って来る例があるという。私も今年喪中はがきを30通ほどいただいたが、その他にメールによる喪中の知らせが2通あった。本来の年賀状や喪中はがきの意味を知らず、手抜きを始めるとこういうことになる。これでは故人の気持ちは伝わらないし、メール送信者の気持ちも分からない。

 年賀状を虚礼廃止の観点から考えるから、奇妙な例が浮き上がってくる。「経済気象台」氏は分かっているだろうか。

2019年12月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com