4509.2019年9月16日(月) 懐かしい台風被災地「鋸南町」

 今月8日台風15号に襲われ大きな被害を出した千葉県鋸南町が、昨晩から今朝にかけて再び激しい風雨に晒された様子が各テレビ局で放送されていた。町は海岸に沿っているので、家屋など建物が風雨によりかなり損壊し、加えて停電、断水にもやられて酷い状態だった。ここは終戦時から約4年半の間住んでいた町だったが、こういう形で脚光を浴びるとは思いも寄らなかった。ただ、近年は町は寂れているようで人口も減少している。

 私が終戦の年に入学した勝山国民学校は、戦後勝山町立勝山小学校と校名が変わり、現在は旧勝山町が隣町の旧保田町と合併して鋸南町となって、校名も鋸南町立鋸南小学校に変わった。今日映し出してくれた鋸南小は校舎、体育館も随分立派な建物だった。その鋸南小学校からエンタメ番組「ミヤネ屋」が実況中継をしていた。番組では10年以上も前に訪れた時にも学校の象徴として残っていた、校門正面の二宮金次郎像を残念なことに映してくれなかった。終戦のドサクサまぎれの時代に、ほんの子どもで夏は海、秋の稲刈り後は田んぼでザリガニ獲りに明け暮れていたので、生活面や親の苦労はまったく感じることはなかったが、時には米軍戦闘機が飛来してきて慌てて防空壕へ逃げ込んだりしていた。母は勤労奉仕にも駆り出されていたので、恐らく両親は随分苦労していたのではないかと思う。竜島、下佐久間、加知山、田町、岩井袋などの各地区の映像を見ても家々が固まって立ち並んで昔の面影は見いだせない。岩井袋からの実況では、昔のイメージがやや残っていたが、周囲の風景はまったく記憶にないものだった。

 ネットで学校の生徒数を調べてみると昨年度は6学年で262人だった。1学年平均43.7人だった。我々が在学していた70年前は、1クラス40人前後で2~3クラスだったから我々の時代に比べても半分以下に減少している。町の人は過疎化が激しいと言っていたから、漁村であり農村でもあるような旧勝山町も寂しい町となっているのだろう。

 懐かしさも一入だが、現在鋸南町の友だちで付き合っているのは、ただひとり千葉市内の笹生嵩夫くんしかいない。その彼も最近は健康を害しているようで、あまり音信がなくなった。町の復興とともに彼にも健康を取り戻して欲しいものである。テレビで鋸南町の風景を見ているうちに、何とかかつて生活していた鋸南町の勝山地区へ訪れてみたい気持ちが強くなった。

2019年9月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com