4473.2019年8月11日(日) 紀貫之「土佐日記」を読む。

 今日からお盆休みに入った。早くも今日1日だけで、海と山の遭難死者が16人も出た。今まで個別にこんなに大勢の犠牲者を生んだ日は記憶にない。今日は「山の日」であるが、これ以上遭難事故が増えないことを願う。今年は長いところでは9連休の会社もあると言われており、本来なら各地で交通機関や宿泊施設が込み合う時期である。しかし、先日西日本を襲った台風8号、9号に続き、南方洋上に発生した大型台風10号の進路予想が連日のように細かく報道され、海外旅行を除いて巷ではバケーションも二の足を踏んでいる人が多いようだ。

 さて、先日現代に残る平安時代の三十六歌仙で、「古今和歌集」の選者、紀貫之による名著「土佐日記」を読了した。先に共著の1章「旅のあゆみ」の原稿に書いた内容の整合性を書物で確認したいと思い、これまで読まずにいた「土佐日記」を遅ればせながら通読した。原書はすんなりとは読めないので、当然解説を参照し見比べながら読んだ。

 読んでいるうちに新しい発見がいくつもあった。「土佐日記」は紀貫之が土佐国司を辞めて京へ帰る道すがら見聞した事象を、周囲の情景も交えて女性体の平仮名で書いたもので、特に冒頭の書き出し「男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり」はよく知られた文である。全文を通して国司の貫之ではなく、その女官が書いているように思わせているが、実際は貫之が綴ったものである。

 実は、この道中で55日間も日時を要したとは知らなかった。その後鎌倉時代になって阿仏尼が「十六夜日記」を書いた時、都から鎌倉まで16日しかかからなかった。当時土佐から都までの移動は22日が一般的と考えられていた時代に55日もかかっていた。何かそれなりの原因があると思ったが、「土佐日記」を読んで氷解した。何と土佐から京まで陸路ではなく、家族やお供を連れて海路を船で向かったのだ。海路ではいろいろなことがあった。海賊の出現、高潮による停泊などで港町に何日も足止めを余儀なくされた。淡路島南岸沿いに紀淡海峡を渡り近畿和泉に着いてから陸路を辿るかと思いきや、紀伊半島西岸を北上して大阪から淀川を上り、山崎へ上陸し都入りした。これでは55日間かかったのも無理もないと思う。貫之はその後相模、上総の国司を務めた後に東北地方の要地で国主を務めていた時に亡くなったと言われている。

 この佳作が生まれた背景を実際に著書を読むことによって知ることが出来たことは、大変参考になった。何事もそうであるが、やはり実物に触れてみることによって新しい知識を得て世界は自ずから開けてくるものである。また、今日「土佐日記」として知られているこの名著も、正式には「土左日記」というのが正しいそうである。現在鎌倉時代の長旅を知りたくて阿仏尼「十六夜日記」を読みかけているところである。その次は松尾芭蕉の「奥の細道」だ。

2019年8月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com