「私たちは人生の『後期』を迎え『興起』して、『光輝』溢れる『高貴』高齢者となりました」。
今月23日の高校クラス会で幹事役を務めるので、参加者に手渡すチラシにユーモアを交えて書き出した文言である。われわれ昭和13年、14年生まれの同級生がいわゆる「後期高齢者」となり、われわれのほとんどが、今年めでたく喜寿を迎える。それらをもろもろもじったジョークであり、揶揄でもある。同級生たちが何と言うかは分からない。
「後期高齢者」という言葉自体は、これが発表された時からかなり批判的に受け取られていた。だが、お役所はそんな批判は歯牙にもかけず、その言葉を強引に制度に取り入れた。実際現在厚生年金支給額から所得税とともに天引きされる費用の一部は、「後期高齢者医療保険」などと称されている。実態は新しい社会保険制度の中で高齢者を総称する言葉として「発明」され普及された言葉であるが、一般的にいかにも老い先短い高齢者をイメージさせるようなニュアンスが込められている印象である。
それにしてももう少し優しい表現を「発明」することができなかったのだろうか。まぁ発想の貧しいお役人では難しいかも知れない。
さて、今年の読売文学賞の評論・伝記賞を受賞した富士川義之氏は、高校1年生時に同クラスにおられたが、他校へ転校したのか卒業時には見かけず、同期生卒業名簿にも名前が載っていない。ところが、母校同窓会名簿の我々の2年下級生の名簿に富士川氏の名前が載っていることが分かったのである。確認のためラグビー部の2年後輩に尋ねてみたところ在籍していたとの確証を得られた。体育はほとんど見学していたというから、やはり長期療養をしていて2年間留年することになったのではないだろうか。これでやっとすっきりした。
ところで、昨日の本ブログで朝日夕刊の連載小説の唐突な終了には何か特別な理由があるのではないかと、連載「口笛鳥」の慌ただしい終わり方に疑問を抱いて取り上げた。その真相と舞台裏は不明だが、今夕の件の小説はピッチが急に早くなった。主人公の小学生が、中学へ進学し、高校へ進み、大学で学び、就職して事務機器メーカーの営業職に就いた。たった一日のうちにすさまじい急展開の進み方である。作者の道尾秀介氏は憶測するところの朝日の要求に屈したのだろうか。慌てて店仕舞いしようとしている。これでは結局面白味のない小説だったということを証明することにならないだろうか。
繰り上げて次に連載される吉本ばなな氏の作品が、もっと魅力的な作品であることを期待している。