今朝シンガポール建国の父と言われ、リー・シェンロン現首相の実父でもあるリー・クアンユー元首相が91歳で亡くなられた。シンガポールは東京23区を僅かに上回る程度の面積でありながら、
1人当たりのGNPが日本を上回る、アジアで最も豊かな国である。その繁栄の基礎を築いたとされた政治家で、経済開発を最優先し、異論を許さない政治手法が時として独裁的と批判を浴びることもあったが、シンガポールを一等国に押し上げた大功労者である。初めてシンガポールの首相の座に就いたのは、1959年であるから、半世紀以上に亘って小国のリーダーとして国を導き国家発展のために貢献した稀代の政治家である。
リー・クアンユー氏について懐かしい思い出がある。今から30年近く前になると思うが、首相として2度目の日本訪問の時だった。外務省から小田急ロマンスカーで箱根へ案内したいので打ち合わせに来て欲しい旨連絡があった。その数日後当時の木村太郎・新宿駅長とともに外務省で外務省職員と警視庁係員を交え新宿から小田原までの乗車誘導について打ち合わせをした。その時初めて知ったことだったが、リー首相はその時2度目の訪日だったので最初と違って「国賓」待遇は適用されず、公式には待遇は変わらない「準国賓」の扱いということだった。警備上乗車される中央部の車両には他の乗客は乗せず、貸し切りにするということだったが、すでに希望の車両にいくつか予約が入っていたので、すでに座席指定券を予約された利用客には、事情を話して別の車両に座席を交代してもらった。当日はパトカーの先導で新宿駅に到着したリー首相一行を先導される駅長の前を露払いのように歩き、乗車車両まで案内したことが思い出される。リー首相の離日後外務省から手配業務を労ってもらった。
29日に国葬を行うと発表された。周囲の親しい人が亡くなるのは寂しいが、リー首相のように多少縁があった著名人が他界されたニュースを聴くことも侘しいものである。
さて、高校のクラス会幹事を委ねられていたが、今日藤沢市内のクラス会で何とか予定通り役目を果たすことができた。17人の元クラスメートが出席し、順次ひとり2分ずつの近況報告をしてもらったが、申し合わせたように恰も病歴発表会のようだった。76歳となれば皆病気持ちか、病歴の一つや二つはあるものだが、それにしても我がクラスメートの病戦歴は華々しい。私が現状まず健康体と発言をしたために、動議が出され一番長生きしそうな私に永久幹事をと指名されかかったが、冗談じゃない。大体これまで幹事は輪番制だったので、極力お断りしてすでにクラス会前に決まっていた幹事に当初の予定通り引き受けてもらうことにした。
ところで、高校野球が始まってから今年が100年になるのを記念して、NHKが今夕「高校野球100年の物語」という特集娯楽番組を放映し、中々興味深く、懐かしいシーンを見せてくれたが、ひとつ大きな間違いを犯していた。100年の間の印象深いでき事として、「1957年王選手の早稲田実業が優勝して春夏を通じて初めて優勝旗が箱根を越えた」と表示されたが、それは大きな間違いである。更に元日本テレビのプロ野球放送アナだった徳光氏もこれを画期的な事象として推薦していたが、徳光氏もとんでもない勇み足である。
大会が始まった翌年の第2回大会で早くも東京代表の慶應義塾普通部が優勝し優勝旗は箱根の山を越えた。戦後も1949年に神奈川県代表の我が母校・湘南高校が初優勝して、その当時優勝旗が箱根を越えたこと自体第2回大会の慶應普通部以来として、大きな話題になっていた。こんなエポック・メーキングなことが、簡単に間違えられているのは、チェック漏れなんていう次元の問題ではなく、報道機関であるNHKの好い加減さと杜撰さが知れる。また、徳光氏の認識と誤解も酷いものだ。全国放送でもあり多くの視聴者が観ていたであろう番組だけに、もう少ししっかり調査して番組作りをしてもらわないと困る。
今日は母校のクラス会で昔の仲間と話合えてすっかり好い気分になっていたが、夜になって母校の栄誉に水を差すような公共放送番組にはがっかりしている。
昨年10月朝日朝刊に再連載が始まった夏目漱石の「三四郎」が、今日117回目の最終回となった。以前文庫版で読んだ時に比べると、随分印象が変わった。当時はまだ学生だったし、もう50年以上前に読んだもので、読み手も変わったし環境が大きく変わったことが何より大きいと思う。率直に言って、これが今の若い世代に受け入れられるかというと何とも言えない。文章は古臭いし、情景にもあまり魅力的な表現がない。しかし、これはこれで日本近代文学の古典と敬意を払われている作品だけに、一目置くべきなのだろう。4月から同じ漱石の「それから」の再連載が始まる。