駒澤大学公開講座で「ドキュメンタリーはこうして生まれる」を講義される須磨章講師が、NHK時代制作に携わった「新日本紀行」シリーズのうちの2作品「最初のニュータウン」と「クルスの家族たち」を見せてくれた。1979年と81年作品だが、時代の雰囲気と流れを全体を通して感じさせてくれる。前者は大阪万博とその後の千里ニュータウン変貌の様子を「かしまし娘」の正司照江がナレーションしたものだ。後者は五島列島で江戸時代から今に続く島のクリスチャンの生活ぶりを描いたものである。大阪万博も五島列島も観光に訪れたことがあるので、懐かしく観ていた。
前者のストーリーで印象深い話があった。万博を控えて千里山ニュータウン計画が浮上して土地の造成が行われた時、地元地主のほとんどが開発と万博のために私有地を売却したが、旧家の88歳と84歳の高齢者夫妻が頑として土地は売らないと言い張り売却に応じなかったことである。言い分はそんなに現金を持っても使い道がないということもさることながら、気になったのは、ちょっと知り合った近所の人が別の機会に顔を合せても素っ気なかったと言ったことである。そんな人たちに住んでもらって従来通りの地域ぐるみの温かい雰囲気を壊されたくないという地元の人のささやかなこだわりと抵抗だったのではないだろうか。
今あちらこちらで聞く同じような慨嘆の声は、日本で古くから培われていた温かい隣組意識の中で大阪万博の頃にはすでに聞かれていたのだ。ごく当たり前の隣人に軽く会釈したり、口を聞いたりする隣組のようなコミュニケーションの第一段階が見られなくなったのは、すでにこの時代から始まっていたのだと痛感した。
実は最近わが家の真前にあった駐車場の跡地に新設した戸建て住宅に引っ越して来られた8世帯ばかりの人々もほとんど自宅から出て来られない。どういう家族構成なのか、またどんな仕事をしているのか、家庭像がまったく分からない。中には夫婦揃って転入の挨拶に来られた方もいるし、こちらから見かけたら声をかけた人もいる。だが、それっきりに終わり、まず自宅から顔を出さないし、近所づきあいをしようとの気持ちも見られない。中には表札を掲げていないお宅もある。ほとんど40歳台の人々だが、こういう乾いた時代とそんな無味乾燥な世間になったのかと思うと、子どもの頃は近所の人々と挨拶を交わして大人・子どもを問わず顔見知りだったり、井戸端会議に首を突っ込んでいたことを考え併せると、それらは実に遠い昔のような気がしてくる。今ではもう放映されないが、「新日本紀行」がふとそんな懐旧に耽らせてくれた。古き日本は遠くなってしまったと思うとやはり一抹の寂しさを感じる。
さて、今日何気なく偶々PC上の‘Wikipedia’で元の勤務先㈱小田急トラベルの項を見ていて、はっと目を瞠った。概要の冒頭にこう書いてあった。「独自の企画で販路を拡大しており、特にマレー鉄道は毎年好評を博し、他社に先駆けてツアーを確立した」とある。何と40年以上も前に私が小田急電鉄㈱に勤務していた頃に考え、企画し、その後小田急トラベル創立とともに転属してシリーズ商品として企画し、大ヒットした「マレー半島縦断2000㎞鉄道の旅」のことである。最初は社内にも特殊な海外旅行に理解を示してくれる上司や同僚もおらず、中々評価してもらえなかったが、そのユニーク性と珍しさで企画を続けている間に少しずつ理解者が増えてツアーも売れ出した。やがて旅行業界でもユニークな旅行として取り上げてくれ話題を呼ぶようになった。ツアーには毎年2千名ぐらいの参加者があり、5年以上も続いた。まだ、他社ではこういう種類のツアーに商品を作り出していない時代に、自分なりの感性と臨場感から作りだしたものだ。ついには、あのJALPAKが疑似商品を売り出し誇大な宣伝を行った。だが、航空会社が企画した鉄道ツアーと鉄道会社のそれとの信用力の差という大きな力が圧倒して、私のツアーはJALPAKに完勝し、JALPAKを鉄道旅行市場から放逐した。誇らしくも懐かしい思い出である。今になってこういう形で第三者である ‘Wikipedia’に正当に評価してもらえることは実に嬉しい。今では旅行エージェントから足を洗ったが、若く元気溌剌だった頃の成果が今日に伝えられているのは有り難い。現在外人旅行企画の相談を受けているが、どうするか目下思案中である。