政治家という種族はよくもまあ物事を誤魔化すことに特異な知恵を出すものだとバカバカしく呆れている。今国会で焦点の安保関連法案の質疑、就中集団的自衛権行使容認や、派生的に注視されるようになった憲法解釈問題に関する与野党の議論を見ていると、一たび天下を取れば何でもありとの印象を受ける。例えば、自民党国会議員の考え方の根底にはそもそも憲法が存在しないのではないかと疑念を感じざるを得ない。従って突然目の前に表れた「憲法」をどう扱って良いのかが分からない。そこへ憲法が国の最高法規であることを知らされ、他国から責められたら自衛隊が追い返せば良いと考え、それが憲法違反と指摘されるや憲法を曲げて解釈する術を考えだした。
現在政府、自民党が考えているのは、目障りな憲法の隙間を衝いて自分たちの思い通りに物事を解釈して自分たちの路線を歩むことだけである。そこには国家、国民のために奉仕するという国会議員として基本的な責務や使命感なんてこれっぽちも考えていない。
先日の衆議院憲法審査会で質問に応えた3人の憲法学者がすべて集団的自衛権容認は憲法違反であると明言したことに対しても、他に憲法学者は大勢いると不遜な発言をしたり(その実ほとんどの憲法学者は違憲と考えている)、閣議で集団的自衛権を決めることは認められるとか、砂川事件の最高裁判決で自衛隊の海外行動は合憲(最高裁は合憲と決めたわけではない)との解釈から、自分たちの思い通りことを進めようとしている。
論争が続いている昨日の衆議院憲法審査会では、弁護士でもある3人の議員が論争した。高村正彦・自民党副総裁、北側一雄・公明党副代表、枝野幸男・民主党幹事長の議論でも、高村氏は自分たちに有利に砂川判決を拡大解釈したり、国民の命を守れるのは憲法学者ではなく政治家だと尊大な主張をしたり、些か支離滅裂状態である。
今日もかつて自民党の重鎮だった4人の元衆議院議員が、記者会見で安保関連法案について反対を表明した。それぞれ幼児期に戦争体験のある山崎拓・元副総裁、亀井静香・元政調会長、武村正義・元新党さきがけ代表、藤井裕久・元民主党幹事長である。これに対して傲慢一徹な菅義偉・官房長官は「すでに辞めて議員バッジを外された方。全く影響はないだろう」と歯牙にもかけない。思い上がりも尽きると言うべきだろうか。もはや救いようがないと言わざるを得ない。
アメリカ議会で安倍首相が安保関連法案は7月に議会を通過すると日本の国会を軽視した約束手形を発行して、顰蹙を買っているが、風雲急を告げてきた国会論争の結果、実際に首相の言う通り法案が通過するのだろうか。どうもやり方が荒っぽく、雑で危険な匂いがしてならない。
さて、朝日朝刊に今日から月1回瀬戸内寂聴のエッセイ「残された日々」の連載が始まった。中々味のある興味深い話だが、その中でちょっと驚いたのは、ノーベル文学賞受賞後に源氏物語現代語訳を書こうとした川端康成に対する円地文子の激しいさや当てである。川端が現代語訳に挑戦し書きだしたのは寂聴さんも目の当たりにしている。だが、源氏物語の現代語訳は与謝野晶子、谷崎潤一郎作品の他には寡聞にして知らなかった。円地の現代語訳について川端が、あれは円地さんの小説源氏だと言ったことが許せなかったのだろう。現代語訳を中途で放り出した川端に対して、円地はこう言ったというのである。「ノーベル賞で甘やかされている作家に、こんな辛い仕事がつとまるものですか。もしできたら、あたし、裸になって銀座を逆立ちして歩いてやる」。川端の方が円地より6歳年長である。それを敢えてノーベル賞作家をとっちめたのはよほど腹に据えかねたのだろう。円地の激しい性格もあるだろうが、途中で現代語訳を挫折した川端が円地の作品をけなしたことがよほどお気に召さなかったのだろう。円地の自尊心もあるだろうが、それだけ源氏物語の現代、訳というのは至難だったのだろう。
次回からの寂聴さんの筆が楽しみである。