2984.2015年7月15日(水) ブランコ・ヴケリッチ没後70周年

 セルビアの友人・山崎洋さんの父・ブランコ・ヴケリッチ氏が亡くなられて今年で70年。今日セルビア大使館で「ブランコ・ヴケリッチ没後70年記念イベント」が行われた。山崎さんからご案内をいただいていたので、ゼミの仲間4人を誘って出かけた。後から小中陽太郎さんも来られた。小中さんはゾルゲ事件について現在執筆中でもあり山崎さんと会えたのはタイミングが良かったと思う。他に映画「スパイ・ゾルゲ」を演出された篠田正浩監督が来られた。

 故ヴケリッチ氏は敗戦の昭和20年1月にスパイの汚名を着せられたまま収容先の網走刑務所で亡くなられた。生前母上は、もう少し頑張って生きていてくれれば、平和な生活を営むことができたのにと残念がっておられた。夫が亡くなられたと刑務所から連絡があった時、取るものもとりあえず4歳の山崎さんを連れて網走へ行き、亡骸と面会された印象を伺ったことがある。

 幕開けは、ネナド・グリシッチ駐日大使が日本とセルビアの友好と交流のために山崎さんの果たされた長年に亘る献身的な努力に対して感謝の言葉を述べられて始まった。引き続き、山崎さんの友人でわざわざセルビアから来られたヴァイオリニスト豊嶋めぐみさんが、バッハ、セルビアの曲、信時潔の曲を独奏された。豊嶋さんの好きな信時の曲の中で、異論はあろうが、「海ゆかば」が中々良かった。信時の名曲と言われている母校の「慶應義塾塾歌」も聞きたかったが、いくら山崎さんが慶應OBとは言え、流石に遠慮があったのだろう。

 山崎さんの父上を偲ぶ話は淡々として珍しいものだった。太平洋戦争戦火の直前に聖路加病院で産声を上げた山崎さんの誕生祝いに、贈っていただいたレコードをそのまま蓄音機で聴かせてくれた。ベートーベンの「月光」である。

 父ヴケリッチ氏が生前蒐集されていたレコードを他にも何曲か聞かせてくれたが、蓄音機自体も戦前の代物であった。しかし、音声は劣化しておらず相当な高級品ではないかと、昔のリッチマンの心のゆとりを感じたものである。

 閉会となった後ゼミの仲間は大使館を去ったが、簡単な飲み物が用意されており小中さんと居残りして多くの人と交流することになった。図らずもそこでオーストラリア在住の山崎さんの異母兄ポール・ヴケリッチ氏とポールさんの元妻ポーリーンさんと話をする機会に恵まれた。ポールさんは子どもの頃日本で生活したことがあったが、日本語はとっくに忘れて話すことはなかった。だが、ポーリーンさんは意外にも慶應に1年間留学したこともあり日本語が流暢だった。私が山崎さんとは慶應の同じ経済学部の同級生だと知るや、先輩扱いされ急に親しく話すことになった。加えて驚いたのは、世田谷区と姉妹都市であるバンバリー市に住んでおられ、両都市の交流メンバーのひとりであることだった。

 山崎さんは今日は主役であったが、今後は今年読売文学賞を受賞された佳代子夫人のお供で各地の講演に付き合わされるということだった。

 帰りに自由が丘駅近くで小中さんと軽食を取って帰宅したのは午前0時を過ぎていた。だが、楽しい1日だった。

2015年7月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com