ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞することになってから、巷では詩人ではなく歌手ではないかと恰もディランはノーベル賞に値しないとやっかんだような声も聞かれるようだ。
そこでディランの最大のヒット曲 ♪Blowin’In The Wind(風に吹かれて)♪ の歌詞を取り上げてみよう。
どれほど道を歩めば 人として認められるのだろう?
どのくらい白い鳩は飛び続ければ 砂浜で安らげるのだろうか?
どれだけの砲弾が飛び交えば 殺戮をやめさせることができるのだろう?
その答えは 風に吹かれて 誰にもわからない
山は海に流されるまで 何年在り続けられるのだろう?
人々はどれほどの時間を過ごせば 自由の身になれるのだろう?
人はどのくらいの時間を 見過ごし続けられるのだろう?
その答えは 風に吹かれて 誰にもつかめない
人はどのくらい見上げれば ほんとの空を見れるのだろう?
人にどれだけ多くの耳があれば 悲しみの声が聴こえるのだろう?
どれだけ数多くの命を失えば 死が無益だと分かるのだろうか?
その答えは 風に吹かれて 誰にもつかめない
答えは風に吹かれている
これがノーベル賞受賞に値する詩である。中々アピール性がある素晴らしい詩だと思う。我々とはちょっと感性が違う。1960年代に反体制運動に力を与えた歌詞である。上記の訳詞は、誰によって訳されたのか分からないが、その中に最近しばしば話題になる「ら抜き言葉」が見られる。最終文節に「人はどのくらい見上げれば ほんとの空を見れるのだろう?」の訳文があるが、原文では‘Yes, how many times must a man look up Before he can see the sky ? ’となっているので、「見れる」はノーベル文学賞受賞者の作詞ではなく、翻訳者の考えである。
それについて偶然にも今朝の日経新聞「親子スクール」に「ら抜き言葉 ダメなの?」で「ら抜き言葉」が取り上げられていた。原則的には「ら抜き言葉」は国語の教科書では間違いとされているが、世間にはかなり出回って使われている。その例として「ら抜きの表現は昭和のころからあった」として、太宰治に「看護婦は男の顔を見ぬように努めた。気の毒で見れなかった」(「道化の華」より)や、獅子文六の随筆「食味歳時記」に「フランスでイチゴは5月でしか食べれない」の表現があるという。
教育のように檻のような中ではその表現は絶対許されないが、自由に書くことができる私的な文章ではあまり深刻に考えるなということであろうか。