3426.2016年9月29日(木) 寂しい常識に欠ける行為

 兄の高校時代の同級生、神沼克伊・国立極地研究所名誉教授と兄紀男とともに、ハイアット・リージェンシー東京で今年3度目の食事会をささやかに?行った。昨年家内を亡くした兄の辛い心中を慮って高校時代から仲の良かった神沼さんが誘ってくれて始まった。そこへ神沼さんを知っていた私もお相伴させてもらった次第である。

 神沼さんはつい最近までアフリカのマダガスカルに行っておられ、帰って来てから嘔吐と下痢がしばらく止まらなかったと言っておられた。私もキューバで頭と腰を打撲したので、ひとしきり病気、ケガ、母校、そしてキューバの話に花を咲かせた。

 神沼さんは前立腺の具合があまり良くないようだが、講演活動で忙しそうだ。現在創価学会の「聖教新聞」から依頼されて毎月1度南極について連載物を寄稿しておられるという。

 神沼さんは学校関係を含めて自著を寄付されることが多いようだが、すぐ受け取ったと知らせてくれる人は極めて少ないそうである。その点は最近私も強く感じている。手紙を書かないことが習い性となって受領証とか、礼状を書かないことが当たり前のようになっているような気がしている。これが今の若者の自然の対応というか、悪い意味の文化となっているような気がしている。人から品物をいただいて何の返事もしない。こんなことが当たり前というのは少しおかしいのではないだろうかと考えている。

 私も過去に度々高校ラグビー部後輩の卒業記念のほんの気持ちと激励のつもりで、僭越にも一人ひとりの部員に言葉を添えて拙著を贈ってきた。だが、これまで誰ひとりとして受け取ったとの返事を届けてくれた後輩はいない。礼状を期待しているわけではない。受け取ったことと、読んでくれたならどんな感想を持ったか教えてくれれば有り難いと思っているだけだ。私世代の一般的な考えからするとせめて受け取ったとの連絡ぐらいくれても好さそうなものではないかとつい考えてしまう。これは、後輩本人はもとより、受け取ったことを知ったであろう両親、家族、友人、部活動の顧問教師らにもいえることだと思う。同じように手紙を書けない、電話をかけない、或いはお礼を言わないことが普通だとの意識や常識が彼らの中にあるのかも知れない。しかし、これは勘違いした不遜な常識であり、文化だと寂しく感じている。

 神沼さんにも同じような経験が大分あるようで、後輩たちがそんな常識を有しているならもう著書を贈呈する必要はないのではないかと考えてしまうと仰っていた。妙なところで意気投合である。

 帰りがけに、昨日テレビで報道された「万里の長城」の手抜き・埋め立て工事について神沼さんとともに呆れてしまった。中国明代の世界遺産として、世界的にあまりにも名高い「万里の長城」の一部区間の城塞の壁と歩ける土台の上部を、歩くには危険との安易な理由だけでセメントを流し込んで固めコンクリート製のお粗末な城壁にしてしまった。ユネスコの許可を得ない世界遺産の無謀なリニューアルである。流石にネットで厳しく糾弾された当局は、責任者を処罰したそうだが、これで大山鳴動というわけにはいくまい。こんな無神経な改ざんは、工事前に考えてみれば誰が考えても認可を得られず理解を得られないことは明らかである。どうしてこんな無様なことになるのか。これでは世界遺産は皆姿を変えてしまうではないか。

 大なり小なり、どうしてごく普通の常識が働かないのだろうか。非常識が幅を利かす時代になったということだろうか。

2016年9月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com