朝日新聞の毎月1回の特集「写真が語る戦争」シリーズで、昨日「樺太の戦争」を取り上げていた。1992年10月に旧厚生省の依頼を受けてシベリアとサハリンを訪れたが、その時滞在した州都ユジノサハリンスク(旧豊原)と、コルサコフ(旧大泊)、ホルムスク(旧真岡)の写真が懐かしさを呼び起こした。特に、大正14年に撮られた真岡市街の写真は実際に私が登った丘の上から撮影されたもので、途中の坂道や民家の集落を思い出す。ここから間宮海峡を越えて遥かにロシア大陸を眺めることができる。
記事によれば、終戦の直前昭和20年8月8日に日本に対して参戦した当時のソ連は、日本がポツダム宣言受諾を内外に表明した15日以降に樺太へ上陸し、島内を悲惨な戦場と化した。特に真岡郵便局の9人の女性電話交換手が「ソ連軍が攻めて来ました。日本の皆さん、さようなら」と言い残して自決した悲劇は、後々まで言い伝えられ、その声を受信した稚内でも戦後大きな話題となり、今その記念碑が宗谷岬に建立されている。
大泊では、市場で露天商を開いていたおばあさんに声をかけられ、「私は終戦直前に広島から家族とともにここへやって来た。終戦後日本人はみんな故国へ帰って行ったが、私たち朝鮮人は取り残された。日本人名は福原です。今まで働きづめで年をとり夫も仕事を辞めたが年金も充分ではない。だから、生活のためにこうして行商をしている」と日本語で語ってくれた疲れた表情を思い出す。ちょうどペレストロイカで旧社会主義の崩壊が始まり、それまでの社会保障制度が危うくなっていたころのことだ。記事を読むと同じように運命を翻弄されたか弱い朝鮮系日本人老人の話が紹介されている。
それにしても終戦前後のソ連政府の強引で非情な占領政策、引き続くソ連軍の犯した日本人住民に対する残虐行為は卑劣極まるもので、その非人道的にして反社会的な行為は、いかに戦争とは言え、とても許しがたい。戦後の日本人殺害事件にソ連軍が国際法を無視してまでも加担していたことは国際的にも証明されている。ロシアだけを責めるつもりはないが、日露戦争から終戦後に至るソ連軍の犯した虐殺行為は到底許容できるものではない。今日でも北方四島返還が膠着状態なのは、ロシア人の覇権主義がもたらす拡大主義と、残虐なスラブ人気質がその大きな要因である。未だにロシアの勝利者意識と占領者意識は消えていない。はっきり言ってロシアと日本の信頼関係を構築するのは、至難の業である。せめてもの救いはロシアと陸路で国境が接していなくて良かったと思うことぐらいである。