辞めた大臣に追い討ちをかけるのは少々酷だが、それにしても低俗極まりない中川昭一・前財務大臣のパフォーマンスは少々度が過ぎていた。その中川氏の行動に、別の無作法なパフォーマンスがあったことがまた暴露された。あの国辱的な記者会見の後、帰国便出発までのごく限られた時間に閉館時間を過ぎたバチカン博物館を見学した。普通に見学していれば何の問題もなかったが、酔っ払った勢いで触れてはいけない美術品に、柵まで乗り越え触って警報ベルまで鳴らしてしまった。
どうしてこういう無作法な人物が、権威を揮えるポジションに座ったのだろうか。こういう人物は普段から行動が可笑しい筈であるし、普通なら問題ばかり起こして高い地位にはつけないと思う。中川氏の行動はどう見ても常識から大きく外れている。やはり、政治、それも世襲政治家の家柄という特殊な世界にだけ許される非常識な王道にあるのではないだろうか。
バチカンの日本大使にしろ、中川氏に付き添った玉木外務省国際局長にしろ、しきりに中川氏を庇った発言で弁明し、自分たちはその時は目を離していたとか、離れた場所にいたとか、どうしてこれで大臣の案内役が務まるのか不思議でならない。周囲が中川氏の傍若無人の振る舞いを放って、酔っ払いのなすがままだったということになる。注目される場における、注目される人物の言動、所作に対して、周囲があまりにも無為無策、無神経だったのではないか。
中川氏の破廉恥な行動を伝える記事の脇に神谷不二氏の死亡公告が載っていた。一瞬目を奪われた。
久しく表舞台から姿を消していた。享年83歳というのだが、われわれの学生時代には日米問題の専門家、国際政治学の権威として華やかに活動していた。決して共鳴するものではなかったが、大阪市立大学教授として「中央公論」や「文藝春秋」にもしばしば鋭く提言したり、斬新な論考を発表していた。右派の論客といっても良かった。
大阪市立大から慶応大法学部教授へ転じて、しばらくは健筆を揮っていたが次第に表舞台で活躍する機会が減っていった。英哲な人ではあったが、やや才走り過ぎた感があり、保守的な思考が必ずしも右寄りの実務的な人々から受け入れられなかったことが、活動の場を減らしていった大きな原因だったのではないかと考えている。ある意味では一世を風靡した人であるが、一時は華やかな舞台に立った論客だっただけに一抹の寂しさを禁じえない。