日本キリスト教団中目黒教会で伝道集会が開かれ、「ローマまで歩いた日本人、ペトロ岐部の殉教」のお話があると小中陽太郎さんから案内をいただいていた。中目黒教会へは以前1度訪れたことがあるが、今日の催しは中々興味深い趣向だった。キリスト教については、それほど詳しく分からないが、出席者の質問の中には、プロテスタント教会でカトリックの人たちを主題に催しを行うことは稀で、その意欲的な試みを評価する声があった。
実はペトロ岐部という人物がどういう人で、歴史上どういう役割を果たしたのかよく分からなかった。話をされたのは、川村信三・上智大学准教授だったが、ローマで学んだので流石に詳しい。
ペトロ岐部は天正少年遣欧使節団より20年ほど遅れて、キリシタン禁教令の下で外国人神父や仲間とともに追われるように長崎を発って行った。些か恥ずかしかったが、ペトロ岐部は少年遣欧使節のひとりだと思っていた。船と自分の足で目指すローマへ向かい、お仕置きを覚悟で日本へ帰り、殉教した。川村講師の話によると井上筑後守が処刑の決断を下した際に、ペトロ岐部の強い信仰心と揺るがぬ決意に感動したようである。その辿ったルートを見るとホルムズ海峡から砂漠の中をペルシア、イラク、シリアを経由してエルサレムへ到着した。その後ベネツィアから、ローマへ入り、マドリード、リスボンを経て海路東南アジアを経由して帰国した。
1614年に発って16年後の1630年に日本へ戻ったというから、この時代では宇宙的な大旅行だったことが分かる。今日の出席者からペトロ岐部が処刑されたのは、江戸・札の辻だという説明があった。新知識ばかりだ。出席された人たちはそのあたりの薀蓄にかけては詳しく、質問でも話の内容でもとても私にはついていけるものでなかった。
進行は小中さんのリードで進められたが、奥さまともども熱心なクリスチャンである小中さんは、素敵なコーディネーター役をこなしておられた。賛美歌から取った「勝利をのぞみ」という歌詞が、懐かしい‘We shall overcome’であるとは知らなかった。かつてはベトナム反戦デモの際よく英語歌詞で歌ったものである。浅はかな知識から、この歌はフォーク歌手ジョーン・バエズが作ったものだとばかり思っていた。終ってから階下で手に入れた90頁ほどの小冊子‘PETRO KIBE’「ローマまで歩いた男」はざっと目を通しただけだが、コンパクトによくまとまっている。ペトロ岐部について新たな一面を知ることが出来たように思う。
目黒区議の須藤甚一郎さんも来ておられた。教会を出て歩道で須藤さんがご存知のタレント・久本雅美さんにばったり逢った。以前の仕事の関係で須藤さんもお顔が広い。そのまま自由が丘へ出て、小中さんご夫妻のおごりで、須藤さん、それに最近ソマリア沖の海賊対策でジブッティへ行かれた防衛省深山秘書課長とともに食事をした。