どうも日本国中に原子力放射性物質汚染の危険が広がりつつあるようだ。それを承知の原子力村の人たちや政治家、経産省、東電が、その事実を懸命に隠そうとしている。それが、原子力研究機関の中枢から外れた良心的な科学者や一部のマス・メディアを通して少しずつ外部へ漏れ伝えられてきている。
われわれはこれまで政府のいう「原子力安全神話」というものを信じてきた。原発は何よりも費用がかからず、二酸化ガスを排出せず地球温暖化を防止し、安全であり、今世紀以降の資源エネルギーの切り札と信じ込まされてきた。それが、福島第1原発事故をきっかけに偽りだということが少しずつ分ってきた。これまで信じ込まされてきた原発のメリットが、悉くウソであることが明らかにされ出した。想定以上に巨額な費用がかかり、(これまでの条件付の囲みを取れば)二酸化ガスを排出し、一旦放射性物質が漏洩すればこの上なく危険なものになるという「当局にとって都合の悪いこと」が、分ってきたのである。
私自身これまでテレビのドキュメンタリー番組や、使用済み核燃料処分に関する映画、幾冊かの専門家の著書を読むことにより、このまま今の原子力政策を推進するとわれわれは核の汚染に晒される危険が極めて高いということが少しずつ分ってきた。
現実に案外軽視されているが、実は一番深刻な問題は使用済み核燃料の処分ではないかと考えている。これまで使用済み核燃料は当然最終処分されているものとばかり思っていたが、マイナスイメージとなることは、国は情報として流さず、メディアも報道してこなかった。そういう意味では、今回の事故による唯一のプラス要因は、その隠蔽された実態と原子力が危険だということが分ったことである。
今朝の朝日新聞に「原発列島・ニッポン」と題する連載記事9回目が半頁に亘って掲載されている。その4つの大きな見出しを書き出してみよう。「迫る廃炉ラッシュ」「埋設地決まらぬまま」「処分費用も巨額」「事故の教訓どう生かす」と暗い言葉である。原子炉の寿命は数十年、通常40年前後と言われている。1970年代後半に本格化した日本の原発はこれから「廃炉時代」に入る。ところが、わが国では放射能廃棄物の管理や具体的な処分方法を最初から決めないまま進めてきたため、今になってそのツケが重くのしかかってきている。これまでに産出された原子力のゴミがほとんど最終処分されていないのだ。
例えば、1963年にわが国で最初に原子力発電に成功した日本原子力研究所の動力試験炉は76年に運転を停止し、96年に廃炉を完了した。だが、廃炉で出た放射性廃棄物は敷地内に一時的に保管されたままである。処分場の候補地すら決まっていない。福井県敦賀市の新型転換炉「ふげん」だって同じようなものだ。すでに「ふげん」計画は中止され、2003年に運転を終えた。だが、その後の処分が進まない。やりっぱなしなのである。これから処分場所の決定をし、気の遠くなるような処分完了までの時間とこれにかかる膨大な費用などを考えると、いかに理解が難しい科学の分野とは言え、実情のあらましを少しずつでも国民に啓蒙してこなかった国の責任は重いと言わざるを得ない。
夕方の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」でも放射性汚染焼却灰を採り上げて報道していた。これは福島近辺ばかりでなく、南は神奈川県横須賀市にまでその影響が及んでいる実態を追求していた。放射能を浴びた樹木やゴミ、汚泥を焼却して出てくる灰の処分問題である。これらを処分する廃棄場所が見つからず、各自治体が独自に保管場所を見つけて保管したまま廃棄しようがないのである。各自治体も増える一方の焼却灰の処理には頭を抱えている。秋田県のある民間業者がコンクリート製の穴の中に捨てることを申し出たが、今度は受け入れ地区の住民から反対運動が起きる有様で、解決のための方法は依然として見つからない。
いずれにせよ「原発ありき」を前提に国民に情報を一切公開せず、国、経産省と電力会社が持ちつ持たれつのずぶずぶの関係の中で進めてきた、国のエネルギー政策と原子力行政は、国民の負担のうえに国民に生命の危険を押し付け国民を裏切ってきた。これは国家が犯した許すべからざる大罪ではないか。