オリンピックも日に日に気分が盛り上がってきているようだが、昨日柔道男子66kg級の試合を観ていて少々不明瞭な判定に驚かされた。日本の海老沼匡選手と韓国選手がともに相譲らぬ好勝負となり、延長戦に持ち込まれた。結果は判定となり、やや海老沼選手が有利と見られていたにも拘わらず、主審と2人の副審がともに韓国選手の勝ちとした。そこですかさず、試合の判定をビデオでチェックしているジュリーが異議を申し立て、協議の末審判3人はいとも簡単にジュリーの判断に従い判定を覆し、海老沼選手の勝ちと一旦出した判定を訂正したのである。誰が観てもこの勝負は、海老沼選手が勝っていたと思っていただけに、勝敗が正されたことは評価できるにしても、3人の審判員が揃いも揃って判定を変えたのは、審判の権威を歪める行為以外の何物でもない。どうしてこんな杜撰な判定がオリンピックの場で許されるのだろうか、疑問に感じられてならない。
そもそもこのジュリーという存在とそれを認めている審判制度自体が、よく理解できない。この試合でも延長戦に入ってから海老沼選手がかけた投げ技で、一度は主審が「技あり」だか、「有効」だかを宣告した。これで「勝負あった」の筈だったが、ジュリーの声で取り消された伏線があった。この投げ技がジュリーの判断に微妙に影響していたと考えられるのではないか。2度までもジュリーは、審判団の判定にアピールし、自論を押しつけた。勝負判定について試合場に最も近い場所で権限を与えられている筈の審判が、マット下でビデオをにらめっこしているジュリーより権限がないという摩訶不思議に驚く。こんな審判ジュリー制度はかつてなかった。それがどうして、審判の権威を損なうような二重審判制度を採用したのだろうか。
2000年シドニー・オリンピックの決勝戦で日本の篠原選手がフランスのドイエ選手にかけた返し技が決まったと見られたが、意外にもドイエ選手の勝ちと判定され、この勝負判定が疑惑を抱かれて、シドニー以降審判が見えない角度をビデオを基にジュリーが判定するという、奇妙な二重審判制度を導入することになった。
しかし、これでもオールマイティというわけではない。ジュリーの権威が高まる一方で、相対的に審判への評価が下がっている。大会の審判の選定も、ジュリーが行うという制度の下では、審判がジュリーのご機嫌取りを行うことも考えられる。
これだけに留まらず、柔道が世界的に普及しつつあるのは喜ぶべき現象であるが、日本の武道から発展した心身のバランスが取れた精神的スポーツである点を考えると、柔道が他のスポーツが目指している「技と力を駆使して勝負を決するスポーツ」に傾斜していくことに大きな違和感がある。ロンドン大会会場からも柔道への熱気が感じられるが、本来の精神修養のための武道の精神が少しずつ損なわれているように感じられて少々残念である。
勝負の後の勝者のガッツポーズが目立って、お互いの健闘を称えるべき礼儀がないがしろにされているように思われることがしばしばある。試合中でもほどけた柔道帯をきちんと結ぶよう主審が注意すべきなのに、主審にもあまりそういう動作は見えない。日本柔道連盟が、国際柔道連盟に対してきちんとその辺りの柔道本来の精神的なものについてどれほど説明しているのか。疑問が残るところである。