大学ゼミの恩師を追悼する「飯田鼎先生追悼文集」の発行記念を兼ねて、ゼミ最後の会合・飯田会が母校・慶應義塾三田キャンパス内のファカルティ・クラブで行われた。追悼文集約百冊を会場へ運ぶため、居候中の長男に大学まで車で送ってもらった。数年ぶりに訪れた懐かしい三田キャンパスには新しい建物があるが、古い建物も残っていて土地勘は何となく頭に残っている。
編集委員が幹事を兼ねることになったので、全員早めに集合してもらった。先生の奥様が慶大生のお孫さんに付き添わされてわざわざ鎌ヶ谷市から来られて冒頭にご挨拶をいただいた。他に挨拶されたOBは申し合わせたように、飯田ゼミで恩師から指導を受けた幸せを語っていた。私は編集長としての立場上、編集委員全員を紹介旁々、発行に至るまでの経過報告を行った。
会合の若干の手違いは、OBへのスピーチ依頼が当初の予定より多人数になって会話を楽しんでもらうとの願いが思惑通りに運ばず、少々手順が狂ってしまったことだ。中にはそれとなくそっと耳打ちをしてくれた同期生もいた。ちょっと会話の時間が少な過ぎたということと、そのために料理の食べ残しが多かったことが誤算と言えば誤算だった。
ひとつ残念だったことは、高校の後輩でもある元岩波の中村寛夫くんが、出席の予定だったにも拘わらず来られなかったことだ。大分体調が悪いのではないかと心配である。山崎洋さんのセルビア版「山の花環」の文庫本出版について岩波書店の考え方と発行の可能性について、彼の感想を聞いてみたかった。
これを最後の飯田会にするのは忍びないとの強い要望に合わせて、何年後とまでは決められないが、「ポスト飯田会」会をやってみてはどうかとの声が出てくるほどの思い入れだった。今後どうなるか判らないが、こういう声が出てくること自体、このような滋味のある楽しい集まりを、それぞれに人生の後半を迎えた現在、このまま消滅させてしまうのは惜しくもあり、寂しいとの切実な要望があるからだと思う。
一旦最後と決めたが、今後この会をどうするのか、会合後の編集委員会でいろいろ意見が出たが、しばらく時間を置き、編集委員が改めて来年初めに会って検討しようということになった。それも飯田先生への敬愛の念から生まれたものだと思う。飯田先生に巡りあい、ご指導いただいたことは本当に幸せだったと思わないわけにはいかない。
それにしても昨年暮れに編集委員会を発足させてから、ほぼ10ヶ月間精一杯追悼文集作りに努めてきたが、今日何とか所期の目的を果たすことができて肩の荷が下りたような気がしている。