こんな幼いころの些細な想い出が蘇ることがよくある。小学生のころは、学校から帰ると毎日のように幕張海岸の埋立地で野球をやっていた。小学校5年生だった76年前の今日、1949年11月19日に作家椎名誠氏の兄研二くんら幕張小学校のクラスメートと後楽園球場の外野席で巨人戦を観戦していた。試合も後半になったころ、場内アナウンスの声の後に、どっと拍手と歓声が上がった。その時東急フライヤーズの大下弘選手が、甲子園球場で行われた対太陽ロビンス戦で7打数7安打の前代未聞の大記録を達成したのである。子ども心にはまだその偉大さは分からず、ポカーンとしていたが、この大記録は未だに達成した選手が他にいないほど難しく貴重な記録なのである。
その時私が友人らと後楽園で観戦していたのは、巨人軍対中日ドラゴンズ戦だったが、応援の甲斐あって、巨人軍が川上、千葉、青田選手らの活躍と別所投手の好投により5-1で勝った。ファンだった巨人軍が勝ったことより、大下選手の記録の偉大さが分からないくせに、7打席7安打という大記録のことばかりが印象に残っている。かつて芦屋市内に住んでいたことがあったので、もしもその時芦屋市内に住んでいれば甲子園に観戦に行って、大下選手の大記録を目に焼き付けることが出来たかもしれないとあらぬ夢を見ていたこともある。
思い返せば、あの当時のことは意外にも断片的にかなり覚えている。その翌日、11月20日は鎌倉・江の島へ学年旅行だった。旅行前に担任の湯浅和先生が鎌倉の知識として、鎌倉幕府や、源頼朝の鎌倉幕府確立の功労者で、千葉県の礎を築いた千葉常胤について話をしてくれた。「幕張」の名も幕府から取ったと言われた。湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル物理学賞を授賞したのもこの年だった。翌年は朝鮮動乱などパッとしない年となった。今でも大下選手の大記録に続き、初めて大仏の中へ入った鎌倉旅行は忘れられない想い出である。
さて、昨晩6時前に九州大分市佐賀関の住宅地帯で火事が発生し、強風に煽られ火は燃え続けて今日12時現在すでに発生から18時間が経過したが、現場から白い煙が上がっている状態である。大火となり48,900㎡が消失し、住宅170棟以上が燃え、多くの住民が避難した。身元不明者が1名出て居るが、他には被害はないようである。大分県は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。
佐賀関は、今ではあまり知る人もいないが、かつて日本鉱業佐賀関工場があり、そこには社会人野球の強豪チームがあった。かつては、夏になると都市対抗野球に夢中になっていて、全鐘紡の3連覇なぞは忘れられない。40年近く前にチームは解散してしまったが、それまでは都市対抗野球には毎年のように顔を出し、ベスト8に進出したこともあり、プロ野球選手も何人か輩出した。そんな過去における華やかな歴史を思うと、一野球ファンとしてはこの火災も他人事とは思えないように感慨深いものを感じる。
1976年山形県酒田市や、2016年新潟県糸魚川市の大火災はよく覚えているが、それと匹敵するような大火災である。まだ火災は完全に鎮火したわけではなく、これから火災の原因や、被災がどの程度だったのかが明かされることだろうが、今では地方都市として住宅が密集するような感じの地域であるだけに、これからの復興がまた大変なことだと思う。