6657.2025年8月4日(月) 「真相報道バンキシャ!」の学校日誌に衝撃

 今年は太平洋戦争終戦80年になる。特に8月は6日に広島、9日には長崎へ原爆が投下され国土は壊滅的損壊を受けた。そして原爆投下から間もない15日に終戦を迎えることになった。いろいろ終戦記念行事やら、特別企画が行われるようだが、昨日日本テレビの「真相報道バンキシャ!」を観ていて、身に詰まらされる思いがした。

 私は、終戦4か月前の昭和20年4月に千葉県勝山町の町立勝山国民学校初等科へ入学した。3月に湘南藤沢から引っ越してきたばかりで、近所に知り合いは誰ひとりいなかった。父は片道2時間半かけて列車で千葉市内の会社へ通い、母は終日勤労奉仕に駆り出されて近所のお付き合いなどに忙殺され、幼い男兄弟4人の面倒までは充分手が回らなかった。そのため両親は時間が取れず、学校へは父の会社の勝山工場で馬車引きをしていた黒川さんというおじさんに連れて行ってもらった。担任の先生は青木先生と仰り、ご主人はすでに戦死されておられ、息子が我々と同じ同級生の中にいた。

 「バンキシャ」でショックを受けたのは、我々が小学生の当時日本の各小中学校では、学校と生徒たちの行動を先生が記録した「学校日誌」という日誌を毎日書いていて、その中に私自身の経験に似た出来事があったことである。長野県安曇野市と宮崎県小林市の小学校にはそんな「学校日誌」が明治以来100年間に亘り書き残されていて戦時中の学校の様子がよく分かる。宮崎の学校では、学校を将校用施設、兵士用宿舎、そして残りを学校として使われ、学校が兵営化していたことである。そのため学校が米軍機に狙われ、空襲により何人かの生徒たちが命を落とす羽目になった。

 私の初等科1年生時に、同級生とともに青木先生に連れられ畑へ郊外学習に出かけた。丁度その時米空軍戦闘機編隊が轟音を響かせながら低空飛行して我々を目指して近づいて来た。青木先生はそれを知るや大きな声で「皆さん!伏せなさい!」と両手を上下に大きく振り大声で叫んだ。戦闘機編隊の先頭機に搭乗していた戦闘隊長の顔が見えるほどの距離まで接近して来た時、戦隊長機は不意に機首を上に向け、上空に向け飛び去り他の戦闘機もそれに付いて行った。恐らく戦隊長が、我々子どもたちが恐怖心から右往左往している様子を見て、故国に残した我が子の姿でも思い出したのであろうか、爆音だけを残してその場を去って行った。しばらくして先生が皆さん、もう心配ないから立ち上がりましょう、と言ってその場の危機一髪のドキュメントは終わった。

 この恐ろしかったシーンは80年経った今でも忘れられない。戦隊長の機転さえなかったなら、我々も被害を被ったかも知れなかった。長野や宮崎の学校のように兵舎と見られなかったことは幸いだった。戦時中の子どもたちは随分怖い想いを経験していたのだなぁということと、よくぞ生々しい学校日誌のような記録を残しておいてくれたものだと感謝の気持ちすら感じている。今パレスチナ・ガザ地区の子どもたちが死の危機に瀕しているTV画像を見ると、つい自分自身も怖い想いを味わされた戦時中の身の毛もよだつあの臨場感を想い出す。戦争は何が起こるか分からない。ふとしたことから大事に至るようなこともある。

 戦争好きな世界のリーダーや、戦争の怖さを知らない戦争知らずの政治家たちが、心から戦争の危険を臨場感的感覚で知り、戦争を止める真剣な努力をしてもらいたいものである。

2025年8月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com