今朝早くからITコンサルタント・K氏に拙宅に来てもらい、PC関連器具を見てもらった。PCがインターネットへ接続していないことは、もう分かっていたが、我がPCの周辺器具ではなく、NTTの器具に支障がなければと考えておられたようだ。早速K氏はPCをチェックしてしばらくし、WIFI器具が接続していないことに気づかれ、それを接続することによって無事回復した。インターネットとの接続により、HPはもちろん、メールの送信も可能となった。2日間ブログの原稿は書いたが、HPにアップ出来ず少々苛立っていたが、これでホッとした。K氏のお陰で問題解消となり、今日から再びブログをHP上に載せることが出来る。当たり前と言えば、当たり前のことだが、こんな不都合が起きるとは考えてもいなかっただけに、気分的にもすっきりしている。これで天下晴れて、再びブログを公開することが出来る。
さて、今日の朝日朝刊を見て、あのインドネシアの暗黒の事件を想い出した。私が初めてインドネシアを訪れた1967年元旦の1年3か月前、1965年に起きた一連のクーデター事件である。ウントン陸軍中佐による9月28日事件とスハルト少将による9月30日事件の2つの連続軍事クーデターにより、それまで独裁的に振舞っていたスカルノ大統領の失脚と、スハルト少将の台頭が明確に知られるようになった事件である。私が訪れた時、スカルノはまだ大統領の地位に留まってはいたが、国民の信頼と評判は地に落ち、流石に建国の父も最早余命はいくばくもないことを感じさせた。案の定私がインドネシアを去って2か月後、スカルノは大統領の職を追われた。スカルノ大統領は、中国とは台湾を指していた当時、世界のどこも相手にしていなかった共産主義国中国と親密な外交関係を結び、それは北京・ジャカルタ枢軸と呼ばれていた。とりわけスバンドリオ外相は、中国と親密な仲だったが、このクーデター以降政権から追放され、その後の消息も聞かれなくなった。国家の安定を脅かすとして、クーデター以降共産主義は法律で禁止されたままである。朝日記事によると、ジョコ大統領は、1965年~2003年に起きた12の事件で重大な人権侵害があったと認めた。死者数が50万人を超える、そのきっかけが、9月28日、30日事件の虐殺だったと述べたのである。
あの当時首都ジャカルタは、私自身強盗に襲われたり、脅迫まがいの闇ドル交換を強要させられたり、治安は極めて悪かったが、メディアの伝える情報がインドネシアという国の真実を伝えていないことを、自ずと知ることになった。その意味ではあのインドネシアへの旅は、私自身へ現実を直に見聞することの重要さと、臨場感の大切さを教えてくれた旅だったと言える。
今日中国では旧正月の春節を迎えた。昨日辺りから故郷へ帰る人々の往来が激しく、コロナの規制を緩めたばかりの国内でも不安視されているところもある。移動する人の数は実に21億人と予想されているそうだから、流石に世界最多人口を誇る国だけのことはある。海外へ出かけた人々を介在して、コロナを輸出させたり、輸入するようなことがないよう願っている。