5396.2022年5月30日(月) 戦没者遺骨収集の印象的な場面

 最近本ブログに50年前の1972年の話題を取り上げたが、中でも沖縄日本本土復帰や、パレスチナ解放戦線と日本赤軍によるイスラエル・テルアビブ空港銃乱射事件などが注目を集めた事件である。そこへ数日前の朝刊記事の片隅にグアム島で戦後長らくジャングル内に潜伏して発見された元日本兵の故横井庄一さんの未亡人が、一昨日亡くなられたとの訃報が載っていた。横井夫妻にお会いしたことはなかったが、横井さんがグアム島の洞窟から出て保護された1972年当時、毎年旧厚生省主宰の中部太平洋における太平洋戦争戦没者遺骨収集派遣団派遣に関わり同島を訪れた。旧厚生省の担当課長らから横井さんや、小野田寛郎さんのプライベートな話、また横井さんが夫人と結婚するに至った経緯や裏話をよく聞かされたものである。夫妻が結ばれた蔭にはいくつも意外なエピソードがあったようだった。あれからもう半世紀が経過した。そこにはいろいろな思い出がある。

 当時はまだ、中部太平洋諸島、特にトラック諸島(現チューク諸島)やパラオ諸島はアメリカの信託統治領だった。サイパン島には、そのアメリカ信託統治領高等弁務官事務所があり、遺骨収集団がお世話になっていたこともあり、厚生省が高等弁務官ご夫妻を日本に招待したことがあった。私はその世話役を任され、都内の観光案内から箱根へ1泊2日の旅行まで行動をともにしたことがある。

 また、パラオ諸島の調査で、激戦地だったペリリュー島から同じく戦火に晒されたアンガウル島へ島の案内人と2人で小さなエンジン付きボートで向かった。だが、その途中で海が荒れ出し飛沫を全身に被り、ボートが上下に大きく揺れて前方が見えないほどだった。アンガウル島の突端には、連絡しておいたエンドー村長が出迎えてくれていたが、村長から海がこれから荒れそうだから、直ぐ引き返した方が安全だとアドバイスされ、アンガウル島へは上陸せず暴風の中を命からがらペリリュー島へ舞い戻ったことがある。

 他にも中部太平洋から更に南下して、ソロモン諸島の調査に出かけたことがある。激戦の島・ニューギニアや、ガダルカナル島、ブーゲンビル島、さらにニューブリテン島のラバウルを訪れ、ラバウルでは海中に素潜りして海底に沈む旧日本海軍艇の中に潜り込んだこともある。

 特に印象に残っているひとつは、ラバウルの食堂でひとり夕食を食べていたところへ突然数人の日本人がドカドカと入ってきて全員が野菜類をムシャムシャ食べ始めたことである。その食べ方が妙に気になり、どうして野菜ばかり食べているのか尋ねてみたら、日本から遠洋航海に出て3か月以上生野菜を全く食べてないので、生ものに飢えているのだと言った。彼らは、私の皿の上にある刺身を見て、魚なら船に来れば丸ごと1匹あげるよとまで言われた。偶々遠洋航海中にラバウルへ寄港した漁船員たちだったのである。青物を長い間食べないと我慢出来ないのだということを思い知ったことである。

 もうひとつ印象的だったのは、遺骨収集団最後の日に収集した戦没者の遺骨を全部積み上げて焼骨したが、木材に火を点け遺骨が焼け落ちると煙の周囲をどこからともなくやって来た蝶々が再び空へ飛び立っていくシーンだった。それを見たあるご遺族の方が、「アッ! お父さんが空へ飛んで行った」と涙を流しながら叫んだ光景が忘れられず、心に残っている。

 あれもこれも今や懐かしい想い出となった。

2022年5月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com