4648.2020年2月2日(日) 音声を発する迷惑?行為

 今日の朝日日曜版別紙「GLOBE」に「迷惑という迷宮」としていろいろなタイプの騒音について興味深く取り上げている。イの一番に取り上げているのは、韓国の子どもの遊ぶ声であり、二番目にスイスの山村の教会の鐘の音だ。他にもサッカーの盛んなドイツで、サッカーの発する音が騒音と捉えられ近所迷惑と受け取られるケースなどである。

 今や高音や、雑音、轟音は町のそこら中から聞こえてくる。先日もテレビで都内の住宅街にある公園の「禁止看板」について放映していた。都会では子どもたちの遊び場が徐々に失われて、子どものころ外で遊びまわっていたことを考えると近ごろの子どもたちが可哀そうに思える。韓国の子どもを取材した記事では、市内のところどころに「ノーキッズゾーン」と書かれた看板が見られるという。韓国では、子どもが騒ぐような行動を「ミンペ」と呼ぶようだが、元々の漢字は「民弊」と書き、日本語の「迷惑」の意味に近いという。子どもの嬌声や泣き叫ぶ声に対して、迷惑だと文句を言っても始まらないだろう。

 スイスの例は、小さな村の教会の時を知らせる鐘の音が、うるさいという苦情だから狭い村で物議を醸すのも当然かも知れない。ただ、朝6時から15分ごとに鐘を鳴らされたのでは、実際ゆっくり眠っていられないという村人の気持ちも分かる。今非イスラム国でイスラム教の礼拝で流れて来るアザーンが問題になっている。オランダでは近年イスラム系の人が増えて、アザーンに慣れないキリスト教徒から苦情が出ている。

 悪意ではないにしてもこれまであまり問題視されなかった音声が、今では迷惑だと敬遠されるようになっている。どうしても音が出ることとその迷惑行為に対しては、どこまで音量が許されるのか当事者同士の配慮と我慢について話し合いをするより仕方があるまい。

 1966年初めてジャカルタに宿泊した朝、窓から流れ入って来たアザーンには何とも言えない気だるいような印象を抱いた。しかし、その後他のイスラム国でしばしば聞いているうちに慣れてしまい、これはイスラム教の習慣だと思うとほとんど気にならなくなった。これも慣れだと思う。近年聞いたこともなかったような音声に出くわして、それに溶け込めないからと言って、かつては気にもされなかった子どもの声が排斥の対象になるとは時代も変わったと思う。と同時に、子どもの声に目くじら立てる大人たちが増えたことは、他人に配慮するとか、他人を思いやる気持ちが失われたということである。「おもいやり」がなくなったということを考えると寂しい限りである。

2020年2月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com