充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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6307.2024年8月19日(月) サイパン玉砕のドキュメントに驚愕と感銘
漸くお盆休みも終わった。相変わらずの猛暑にうんざりであるが、立秋を過ぎたことでもあり、ひたすら涼しい秋の訪れを待っているところである。
終戦から79年が経過した。今年は例年より太平洋戦争に関する報道が多かったように思っている。特にNHKテレビでは、終戦記念日を過ぎても連日のように、開戦の原因や敗戦に至る経緯をドキュメンタリー編集にして放映したので、つい関心をそそられ、いくつかの番組を考えながら鑑賞した。中でも昨夜放映された「“最後の1人を殺すまで”~サイパン戦 発掘・米軍録音記録~」は、米軍の映像を基にして編集されたもので、玉砕のサイパン島は何度も訪れて知っているだけに、最後まで目が離せなかった。
サイパン島へは、旧厚生省による「太平洋戦争戦没者遺骨収集団」に1970年代から20余年間同行して、毎年1か月近くサイパンに滞在して団長だった厚生省課長の小間使いのようなことをしていたから、特別印象深く感じた。画像には、昔サイパンの繁華街だったガラパンの風景も観られ、特に懐かしく感じた。
実は、小学生のころ、母が親しかった近所のおばさんのご主人がサイパン玉砕で亡くなったと聞いて、サイパンという島が頭の中にこびりついていた。
米軍第4海兵師団25連隊が、サイパン島へ攻撃を仕掛けたのは、昭和19年6月15日だった。この最初の米軍上陸戦で、日本兵4万8千人のうち、2万5千人近くが戦死した。その他に現地人のチャモロ族5千人が亡くなった。6月27日には、南部アスリート飛行場周辺へ陸軍独立歩兵第317大隊120人の特攻的日本兵が「バンザイ攻撃」を仕掛け、指揮した佐々木巳代太大尉は、「天皇のため、お国のため、最後の総攻撃だ!生きて帰ったらダメだ!大声を上げて突っ込め!」と激を飛ばした。これには、米兵もびっくりして日本人は狂信的で、文明的なことは通用しないと驚いたようだ。日本軍高官の佐藤賢了・軍務局長は、「1人たりとも生きてはいけない。女子供も玉砕してもらいたい」と全員玉砕を命じた。7月7日、日本兵をサイパン島北部のマッピ岬へ追い詰めた米軍は、最後の総攻撃を敢行し、日本兵3千人が戦死、自決して玉砕した。さしものサイパン攻撃も終焉となった。このサイパン玉砕戦の死者の数は、日本兵4万1千人、日本人住民1万人、先住民1千人という惨劇だったが、米兵は3千人だった。最後には、米軍も「最後の1人を殺すまで戦い続ける」と言っていたが、7月9日米軍はサイパン占領を宣言した。こうして悲惨な戦闘は終結した。
この戦闘に参加した元日本兵、及び米軍兵もあまりの惨状に言葉がなく、インタビューされて涙を流しているばかりだった。戦争の惨さを徹底的に追求し、その悲惨さをアピールしていた。
遺骨収集では、広島、長崎へ原爆を投下したB-29 爆撃機が飛び立った飛行場のあるテニアン島から、そこで収骨された遺骨を積み、遺骨とともに上陸用舟艇でサイパンへ帰って来たこともあった。収骨事業の最後に、北マリアナ諸島から広く収骨されたお骨を荼毘に臥す焼骨式がサイパンで行われたが、立ち上る煙を見て、遺族の方々が涙を流しておられた悲しい姿が強く印象に残っている。
終戦記念日が近づくと毎年決まって戦友やご遺族の方々とご一緒した戦跡慰霊団の記憶も蘇って来る。何度でも繰り返すが、どんなことがあっても戦争は誰にとっても悲しい事実と記録の集合体で、それ故に絶対にやってはいけない、この世の地獄である。戦争を知らない国会議員には、そういう当然のことが分かっているだろうか。
6306.2024年8月18日(日) 東南アジアにおける首相交代の背景
去る14日岸田首相が、来月行われる自民党総裁選に出馬しないことを公表した。岸田政権の支持率は一向に上がらず、本人は精一杯任務に励んでいると思い不本意な思いであろう。だが、いくら動き回っても支持率は上がらず、辞めるのもこの辺が潮時だろうと思う。致命的だったのは、昨年自民党派閥の裏金問題が公になって、根底に派閥問題があったことである。麻生派を除き、岸田首相も派閥を解消したが、党員へ党員資格の剥奪や、離党勧告などの制裁を課していながら、自らへの責任は問わず、また旧統一教会問題の対応もうやむやのままである。それがどういう風の吹き回しか、不出馬発言の中で裏金問題の責任を取るとの発言があったが、あまりにも遅すぎる。少々ピントがずれている印象を与えた。
いずれこの時が来るだろうと思いながらも、虚を突かれた次の総裁を狙っていた面々も内心慌てているようだ。まだ、正式に出馬宣言をする議員は分からないが、メディア報道によれば、出馬意欲のある議員は現状で11人だという。過去の総裁選では、出馬したのは5人が最多であり、残り1か月でどういう経緯を辿り、誰が次の総裁に選出されるか興味深い。
さて、先日バングラデッシュで大きなデモが起き、多くの死傷者を出す事態となり、長年絶大の権力を行使していたシェイク・ハシナ前首相が、国外脱出してノーベル平和賞受賞者のモハマド・ユヌス氏が首席顧問として暫定政権を管理しているが、90日以内に首相選出のための総選挙を実施し、新しい首相を選任する。バングラデッシュの政治がどうなるか懸念はあるが、バングラデッシュ以上に今後の政局運営が気になるのが、タイである。
タイでは、14日憲法裁判所がセター首相に対して即時解任を命じる判決を下した翌々日、議会で新たな首相を決める投票が行われ、最大与党「タイ貢献党」党首でありタクシン元首相の次女ペートンタン氏が選出された。新首相はまだ37歳で歴代最年少であり、如何に英才と言えども、複雑な要因が政治を混乱させている国内政治を安定させることが出来るだろうか、指導力と政治力が問われる。タクシン元首相家系では4人目の首相になる。インラック元首相の姪でもある。タイ国内には政治的な不安定要因があり、軍がかなり政治に影響力を持つだけに、いかに英才であろうとも政局運営は難しいと思われる。10年前のクーデター以降、タイでは軍に近い政権が続いていた。漸く昨年の総選挙で、幅広い階層から支持を集めた民主派政党「前進党」が予想を覆して第1党に躍進した。ところが、王室への不敬罪の改正や、軍の影響力の排除などを主張する前進党に対して保守党が反発し、前進党は連立政権の枠組みから外れ野党に転じた。こういう政治的混乱の中で、海外亡命生活を送っていたタクシン元首相が15年ぶりに帰国してタクシン派の「タイ貢献党」と行動をともにし、次女を同党党首に抜擢したのである。すべて父親の敷くレールの上を歩いてトップの座に就いたものであり、その政治的力は未知数である。なぜか再び大きな政治的転換の局面が現れるような気がしてならない。初めて出かけた海外旅行先がタイで、その時のタイの人びとの優しさに触れたことが、タイに心を惹かれるようになった理由である。どうも気になるこれからのタイ国内の政治的不安定さである。
6305.2024年8月17日(土) パリ五輪の評価と今後の在り方
昨夜半から今朝にかけて関東南部は危険なほどの大豪雨が襲うとの予報だったので、いつも以上に警戒していたが、今朝起きてみると雨が降った形跡はまったく見られず、台風一過で晴天である。正に青天の霹靂である。これまで凡そ予報が当たっていたが、今日は完全に外れた。これで今日も朝から暑くなり、全国的には、高知県四万十市の39.6℃が最高気温、都内でのそれは35.9℃だった。暑い!暑い!
さて、パリ・オリンピックも終わって帰国した選手団の解散式も済ませ、メダルを獲得した選手たちは、テレビ局から引っ張りだこである。日本選手が活躍したせいもあり、ほとんど夜中に行われた競技が多いにも拘わらず、テレビ観戦した人はかなり多かったようだ。テレビ番組視聴率ランキングを見ると、オリンピック関係番組が高視聴率で、高視聴率16番組の内2週続けてその半分を占めている。
フランス文化の描出か、聊か奇異を衒った演出が多く、その手法に賛否両論があり、特別に高評価の声はあまり聞かれない。アメリカの「Business Insider」のマンシーン・ローガン記者は東京と比較して、コロナ渦の中、無観客という異常な競技場の中で、無難に役割をこなした東京を評価する反面、パリには厳しいコメントだった。パリに厳しかったのは、競技だけでなく、また、組織委員会がプレスに推薦したホテルが、あの暑さの中でエアコンが効いていなかったことまで取り上げている。選手村の食事や冷房が選手に評判が良くなかったようだ。また、メディアに配られた試供品が東京は豊富だったが、パリでは水筒だけだったとまで明かしている。
トライアスロンの選手たちの間でも、東京では金を獲っていながら不振だったノルウェー選手や、ベルギー選手からは、セーヌ川の水質汚染に厳しい批判が出されている。セーヌ川での競技強行はギャンブルであり、アスリートに無礼だと厳しく非難している。
また、私自身も若干気になっていたのは、「礼に始まり礼に終わる」柔道が、選手のみならず、審判員の中にも礼を欠く行動が度々見られたことである。選手同士が向き合って頭を下げる、試合開始前と試合後の礼儀があまり出来ていなかった。審判はそれを糺すことなく、試合を進めていた。恐らく外国の柔道連盟は、礼について指導していないのではないかと考えている。東京大会に続き金メダルを獲った阿部一二三選手が、畳を降りる際に正座をしながら一礼をしたことを、国際柔道連盟の「『JUDO』という言葉は品格を持った在り方を意味する」との言葉に照らして、海外のファンも日本柔道の礼の作法を評価している。日本柔道連盟もこの点を今後どうするのか。国際柔道連盟に対して注意を促すべきだと思う。
その他に暑すぎる真夏の大会からマラソンその他を除外する話も出ている。ともかくパリ・オリンピックは終わった。近々バッハIOC会長が会長を辞任すると発表し、後任に早くも国際陸連のセバスチャン・コー会長が名乗りを上げている。とかく過激な発言が多く、ロス五輪の1500m金メダリストで中距離界のヒーローだったコー会長がIOC会長に選任されたら、新たな改革が実行されることだろうか。五輪とIOCの先行きを見守っていきたい。
6304.2024年8月16日(金) 靖国神社へ参拝し戦争へ向かう国会議員
去る8日宮崎県日向灘を震源とする震度6弱の地震が発生し、南海トラフ地震に関係あるとして、その後「巨大地震注意」が出されていた。それが昨日漸く解除された。だが、地震から逃れたとしても今度は大型台風7号が太平洋岸を北上して関東沿岸部に停滞し、警戒を怠ることができない。今日はJR東海の新幹線も東京・名古屋間は終日運休すると通告された。今朝起きた時は雨上がりで薄日が差していたが、昼近くになってかなり風雨が激しくなった。午後は時折大雨と強風が襲い掛かって来た。今晩から明朝にかけて近年稀なほどの暴風雨が襲ってくるようだ。
さて、昨日の終戦記念日に当たり、木原稔・防衛大臣や閣僚経験者、自民党、及び日本維新の会ら揃って戦争を知らない国会議員が、かつて軍国主義の精神的支柱だった靖国神社を参拝してまたまた問題を提起している。彼らの言い分は、国のために尊い生命を犠牲にされた故人に哀悼の誠を捧げ、尊崇の念を表したと決まり文句のように述べたが、彼らには戦犯が開戦に至らしめた経緯と真実、そして戦争というものがよく分かっていない。靖国神社にはA級戦犯として絞首刑死した戦争指導者14名が合祀されており、その彼らに対して国を代表する政府要人が参拝することは、靖国へ祀られている他の戦没者や遺族が快く思う筈がないではないか。また、戦犯を敬い哀悼の意を表するということは、先の戦争を肯定することにならないか。言わずもがなであるが、歴史問題の誤った態度を反映しているとして中国や韓国から厳しく非難する声が上がっている。アメリカ国務省の報道担当者ですら、後ろ向きに見えるとして日韓関係への影響に懸念を示した。
遺族の参拝者には祀られた肉親に対する思いがあり、戦犯のせいで自分たちの大切な家族の支柱を奪われた現実は恨みこそあれ、尊崇する気持ちはまったくないと思う。以前から戦犯の遺骨だけは靖国から別の場へ移すべきだとの声があったが、戦犯の遺族から強い反対がありそのままである。
防衛省は政教分離の考えから自衛隊員が靖国神社に参拝することを憲法違反として認めてはいない。しかし、陸上自衛隊や海上自衛隊の幹部らが集団で参拝した事実が判明した。防衛省の自衛隊員の指導、管理は、統制が充分取れていないほどのユルフンである。その問題のある靖国参拝を国家公務員である国会議員が、平和を目指す国の方向に背き、何の抵抗もなく靖国参拝を続けているのは、靖国神社が存在する意味と参拝する真意が分かっていないからである。戦争に関する事実認識にも欠けている点がある。
敗色も濃厚になりつつあった昭和19年11月2日の朝日新聞「声」欄に「噫 神風隊」と題してひとりの動員学徒が戦争賛美の投稿をしている。
「神風攻撃隊の功績を聞いて泣かぬ者があらうか。あゝ己が必死の旅出をなすためのもう訓練を続けた至高至純の精神、そして敵をもとめて飛び去って行った雄々しさよ。日本青少年よ、感奮して叫べ、『待って下さい、私も続いて行きます』と、日本産業戦士よ、興起して叫べ『待って下さい、私がもっと良い飛機をもっと早く造ります』と」。
前後の見境もなく完全に戦争に吞み込まれた戦争礼賛の声である。しかし、それが日本の敗戦をもたらし、多くの戦争犠牲者を生んだのだ。何が「至高至純の精神」か。靖国神社へ参拝した国会議員らも、彼らのような戦争へひたむきな魂はないだろうが、周囲が分からなくなった戦争狂信者の慣れの果てに似ている。戦争を知らない国会議員らに戦争の本質と悲劇を悟らせる新薬はないものだろうか。
6303.2024年8月15日(木) 終戦記念日に太平洋戦争再発の懸念
3年8か月に亘る太平洋戦争が終わって79年、今日は「終戦記念日」である。全国各地で戦没者追悼祈念式典が行われたが、東京では日本武道館において正午から政府主催の「全国戦没者追悼式」が、天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、岸田首相、衆参両院議長、最高裁長官、国会議員らに、ご遺族、日本遺族会関係者らが出席の下に執り行われた。
終戦は国民学校(現小学校)1年生の夏休み中のことだった。父から「戦争は終わったぞ。もう防空壕に隠れることはなくなった」と言われ、2学期が始まり学校で戦争未亡人となられた担任の青木先生から「戦争は終わりました。もう怖いことはありません」と聞かされ、空襲の都度逃げ込んだ防空壕へ駆け込まなくてもよいことにホッとしたことを想い出す。しばらくすると出征兵士がぼつぼつ帰って来た。時には、駅まで出迎えに行ったことがあった。
夏休み前に先生に連れられてクラス全員と校外へ出かけた時、突然米軍戦闘機編隊に襲われそうになったことがあり、その時青木先生が、「皆さん!伏せなさい!」と身振り手振りを交え絶叫したので、慌てて地面に腹ばいになった。先頭の戦闘隊長機が急降下した時に、われわれが子どもだと分かったのか、急に機首を上げ機体を急上昇させてそのまま編隊は上空へ飛び去って行った。この怖かった臨場感は今以て身体が覚えている。
その後60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加して、実際に戦時下のベトナムを訪れ、ここでも戦争の恐ろしさを身を以て体験した。更に、翌年には第3次中東戦争の戦地を訪れ、戒厳令下のアンマン市内(ヨルダン)でヨルダン軍兵士に身柄を拘束され、市内を兵士らに囲まれ銃を突き付けられながら連行された。スエズ運河ではエジプト警察に捕捉された。アデンが急遽独立したため、ビザが無効となり入国を拒否されたが、空港で新独立国家のビザを取り直すことによって入国することができた。いま戦闘中のパレスチナでは、イスラエル人から彼らのアラブ人に対する警戒心や長年の反アラブ感情を話してもらい、誤解されがちの彼らの考えも多少知ることができた。こうして戦乱の地において臨場感から実態を知ることにより、今日に至るまで戦争の怖さと嫌悪感が体内に入り込んでいる。
太平洋戦争における犠牲者は、310万人といわれているが、遺族やその親戚を合わせると2千万人近い人々が戦争による被害者と言えるのではないだろうか。厚生労働省主宰の「太平洋戦争戦没者遺骨収集事業」に、20余年に亘り関わることができて、毎年1か月間サイパン島に滞在して実際に焼骨式にも立ち会い、ご遺族や戦友が悲しみに暮れる姿を目の当たりにして、もう戦争だけは絶対に止めなければいけないと強く思った。
ところが、現状はどうだろうか。戦争に懲りて、戦争をなくそうと誓って平和憲法を制定し、第9条には「~戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と誇り高い理想を掲げた。然るに、国は70年前に偽証軍隊である自衛隊を発足させ、その防衛関係費は年々増額され、安保関連3文書により5年間で総額43兆円を防衛力強化に投資するまでになった。防衛機材も拡充し、敵基地攻撃能力も備えるという。すべて憲法違反行為である。中国・台湾対立問題が崩れると、米軍沖縄基地を目標に中国機が沖縄を攻撃することははっきりしている。
これらを考えると、終戦記念日にいくら反戦を誓っても、為政者が軍事力を整備し、そのうえ「日米協定」のアメリカから巧みに欺かれて、憲法9条がまったく無視されていることに恐怖と不安が湧いてくる。戦争が一歩一歩近づいている。今や戦後ではなく、戦前と言える空気になりつつある。この自らが固めた矛盾から抜け出せなくなった岸田首相は、昨日ついに匙を投げ、首相の椅子を放り出すことに決めた。来月の自民党総裁選には出馬しないことを公表した。