充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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6565.2025年5月4日(日) 世界中を悩ませる害虫・トランプ大統領
先月末から再びウォーキングを始めた。昨年7月にコロナを発症して医師と相談のうえ、しばらくウォーキングを停止した。先日医師からまたウォーキングを再開した方が良いとのアドバイスをいただいた。そしてこのGWの間も自宅近辺の住宅街を歩いているが、ひょんなことに気づいた。所謂古くから固定の祭日となっている4月29日「昭和の日」と昨日「憲法記念日」に歩いてみて、国旗「日の丸」を竿に掲げている住宅がほとんど見当たらないことである。たった2軒だけだった。かく申す我が家でも、国旗を掲げていない。あまり国旗と国の祭日に関連性を気に留めない風潮になってしまったのだろう。
ついては、このところトランプ大統領が就任してからのアメリカと日本の外交関係が、あまりスムーズではないような気がしている。日本側にも些か腰が引けて日の丸を掲げて毅然と正論を戦わせる気概が見られない。アメリカ側にも、常識人としてのトランプ大統領の言動に大きな疑問符がいくつも付きだしている。自分の利益、名誉のためには他人を誹謗中傷することはごく当たり前の人物が、自国アメリカは世界最大の資本主義国で、民主主義国だと自慢している。その煽りを受けて外交、経済面でとばっちりを受けている国が多い。つい最近は、大統領就任後100日にして、第2次世界大戦以降最低の支持率に落ち込んだ。しかし、ご本人はそれらはすべてフェイクであり、自分は最も実績を上げたと自画自賛している有様である。好き勝手に閣僚人事を決めたり、国内名門大学への嫌がらせのような助成金停止や、子どものようにローマ法王の服装を纏った写真を散布したり、閣僚人事をはじめ周囲の取り巻きをイエスマンで固めている。そのトランプ政権と話し合うのは中々難しいが、最近の関税問題で日米交渉をみていると相手国の立場を考えた正当な交渉をしないで、自分のためとアメリカの歪んだ国益のために派手に動き回っているだけである。
2回目の日米関税交渉を済ませた赤澤経済再生相が帰国したが、予想通りアメリカには最初から日本の要求を取り込もうとの気持ちはまるでなかったようで、日本にとって何もプラスになるような結果とはならなかったようだ。赤澤大臣も日本の立場をきちんと主張する機会を与えてもらえなかったようで、交渉役としては荷が重かったような印象を受けている。
会合から帰った赤澤大臣と石破首相が話し合ったが、アメリカが対日交渉では、関税25%の鉄鋼・アルミ・自動車については交渉対象外としているが、日本は自動車への追加関税を見直すよう求めている。互いに、引く気はないようで、このままでは交渉が暗礁に乗り上げるのは必至である。
アメリカはトランプ大統領の実績を上げたとの功名心を満足させるために、これまで真面だった貿易にアメリカにとってハンデだと思う点を補い、ただ一方的にアメリカにとって有利な関税税率を押し付けようとしている。今日のアメリカは、大統領1人が身勝手に多くの国を悩ませる困った国になってしまった。
6564.2025年5月3日(土) 憲法記念日を機に、対米関係を考え直すべき時
ゴールデン・ウィークも後半に入って、今日は後半最初の休日「憲法記念日」である。連休ともなるととかく話題はレジャー面に気持ちが傾きがちであるが、その中で今日「憲法記念日」のように、戦後国のあるべき姿や骨組みを規定した国法「憲法」が施行された厳粛な祭日であることは、つい忘れがちになる。しかし、日常生活ではあまり意識しない憲法について、「憲法記念日」としてメディアではかなり取り上げている。今日1日を憲法について考えてみることも必要ではないかと思う。
具体的には、憲法が作られた背景には、三権分立に基づく政治の仕組みを定めて国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本としている。
例年メディアでは憲法に関する世論調査を実施している。朝日新聞の調査では、民主主義が定着していると感じる国民は、48%で過半数に達しなくなっている。憲法の最も大事な条文「第9条-戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」が、国民にどう思われているのかとの問いに対しては、9条改正反対が56%である。戦後80年を経過した今では、憲法発布・施行からかなり時が経過したこともあり、憲法全般については今では実情にそぐわない点や、改定すべき箇所もあると思う。実際「憲法を変える必要がある」と応えた人が53%もいて、「変える必要がない」人の35%を上回る実情がある。この辺りを9条改正と信じて9条改正賛成者がかなり多いと都合よく解釈する人たちがいることに警戒しなければならない。それは、9条2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と書かれている点に注目しなければならない。現実には、今や自衛隊は軍隊と同じ戦力を有している。戦争にこそ参戦していないが、軍服を纏い、国内に自然災害などが発生すれば、地元自治体の要請を受けて救援活動に当たることが多い。自衛隊の存在と協力に感謝しつつ、これを非公認の自衛隊という軍隊から、実質的な軍隊に格上げしようと、憲法の精神を考えず、条文だけを書き換えようという憲法改正論者が、かなり現れて来た。危険な動きである。
アメリカの要請もあり、自衛隊は予算を増額し、アメリカへの協力を迫られ、アメリカのお節介もエスカレートしている。日本は果たして独立国なのか疑問に思うことも多い。今では戦後ほとんど権力を握って来た自民党が、アメリカに対しては対等の立場、要求を行使出来ない有様である。我々が「60年安保条約」に反対したが、反対闘争は国民運動になりながらも報われず、今や日本は手足をアメリカに縛られている。この安保体制の不平等によって、経済面でもアメリカに不利益を押し付けられている。
今トランプ政権による関税により、日本も例外なく理不尽な対応を迫られている。それは昨日の日米関税交渉で、日本が外したいと提示した自動車、鉄鋼、アルミニウムなどの関税について、アメリカは交渉の枠外だとの認識を示した。これまで自由貿易を行って結果的に優れた日本の商品は輸出でき、問題の多いアメリカ産製品が日本に輸入出来なかった結果、日米間の貿易はアメリカの赤字になった。それを一方的に相手国に圧力をかけて、重税を課そうとする非民主主義国・非自由主義国のアメリカの我が儘をこのまま許して良いものだろうか。
今日の憲法記念日を機会に、アメリカとの外交、経済関係を見直して、対等な立場で付き合えるよう考え直すべき時に来たのではないかと考えている。
6563.2025年5月2日(金) メキシコ・アカプルコにある支倉常長像
世界の国々と同様に日本の政治、経済も、今トランプ政権の関税問題に振り回されている感じで、昨日再び訪米した赤澤経済再生相が日本時間の今朝アメリカの財務長官と話し合いを持ったところである。
しかし、国内に与える社会的な影響が大きいのはお隣の韓国で、昨日韓国大法院(最高裁)によって降された判決で大きな話題になっている。その韓国の最高裁判決とは、次期大統領選の最有力候補者である「共に民主党」の李在明前代表に対して公職選挙法違反の二審無罪判決を破棄し、高裁に差し戻した件である。大統領選は、来る6月3日に行われるが、現状で李在明氏が立候補出来るかどうか、微妙な判断となった。世論調査によれば李在明氏への支持は38%を獲得し、現与党の「国民の力」の韓東勲前代表の8%と金文洙前雇用労働相の6%を完全に圧倒している。李在明氏が大きくリードして李氏のほぼ独走状態だった。この他にも「国民の力」の韓悳洙前首相が出馬を検討しており、当分の間韓国の政界は穏やかならぬ政争が熱を帯びることだろう。大統領選まで残り1か月となったが、これから先の争いに注視したいと思っている。
さて、あるところから依頼されて、他愛もないテーマであるが、今「銅像」について書いている。いろいろ調べてみると「人間の像」も興味深い。我々の小学生時代には、ほとんどの学校に本を読みながら、背に薪を背負って歩いている勤勉な二宮金次郎像が建てられていた。私が通った2つの小学校にも校門を入った正面と、教職員室の前にそれぞれ金次郎の立像があった。それが、最近どこの小学校の校庭にも見られない。金次郎の実像は、戦後の民主主義教育の方針に合わないという背景があるらしい。「子どもが働く姿は勧められない」とか、「歩きながら本を読むのは危険」というように戦前の軍国教育では、むしろ推奨された教育の一環であるが、今日でもケースによっては十分受け入れることは考えられると思う。しかし、現代では歩きスマホに似た行為は認められないというのは当然であるが、こうして小学校唱歌に唄われた♪~親を助け、弟を世話し、兄弟仲良く孝行をつくす、手本は二宮金次郎♪が、唄われなくなり、その像も消えていく運命となったのには、若干寂しさを感じる。
仏教国日本では古来大きな大仏像などが多くの国民から崇められ、奈良や鎌倉の大仏座像が広く知られているが、近年になって大仏への視点が変わり、大きな大仏像が建設される事情には、宗教的に仏様に祈り教えを乞うような精神的なことよりも、外形的に大仏の大きさを競うような傾向が現れ、座像より立像が各地に建造されるようになった。世界的に見てもベスト10に入る大きな像の中には、120mの牛久大仏や、100mの仙台大観音の立像がある。ただ、これらは観光客を引き寄せる目的があるように思えて奈良や鎌倉大仏のように崇められる存在とは大分かけ離れているような気がする。
日本人の石像で、私自身一番驚いたのは、メキシコのアカプルコ市の海岸に海を背に建てられた支倉常長の立像を目にした時だった。確かに支倉常長は、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団で太平洋を横断し、その最初の上陸地がアカプルコだった。
その支倉常長像は、1973年に、常長生誕400年の翌年に仙台市がアカプルコ市に寄贈したものだったが、その後市内大通りに移転された。しかし、風化して、日系人がこれを心配して現地で運動して2010年再び海岸のPLAZA JAPON(日本広場)に、海を背に建てられた。
初めて見た時は、海岸砂浜のPLAZA JAPONに建っていたが、こんなところに地味な支倉常長の立像があることに感動したことも事実である。出来るならば、今一度想いを噛みしめながら支倉常長像を訪れて見たいものである。
6562.2025年5月1日(木) 実兄がプロ入りした投手と対決した神宮大会
今日はメーデーらしからぬメーデーで連休も真っただ中にあり、各地から悲喜こもごものニュースが伝えられてくる。観光の名所・古都京都には多くの外国人観光客が訪れている。その京都の中心街とも言える五条通り高倉の交差点で、昨日未明に水道管から大量の水が道路上に溢れ出し、道路が冠水し、地下に水が流れ込み地下駐車場の車が水浸しになる有様だった。夕方には周辺地域で水道は使用出来るようになった。京都市の言い分は、1959年に水道管敷設以来、交換の目安である60年を過ぎたので、今年中には撤去する予定だったとこじつけるような後追いの説明をしている。
今年1月下旬には、埼玉県八潮市内で道路陥没事故によりトラックが転落して、今日まで運転士の行方が分からない。今日初めて消防員が下水道に入り運転士を探したが、それらしい姿が見えたと言い、明日から本格的に探索するようだ。ここでは事故周辺ばかりでなく、この機会に広く上下水道菅工事を行う計画のようだが、完成までに5~7年を要するというから今まで耐用年数を超えて使用してきた他の下水道工事も見直す必要がある。長年に亘って使用した上下水道管は、全国で延約75万㎞もあり、そう簡単に工事を終えられるわけではないが、計画性を持った総合的な対策を立てる必要があると思う。
さて、懐かしい野球の話題に切り替えてみよう。昨日プロ野球巨人軍の山崎伊織投手がシーズン開幕以来連続35イニングを無得点に抑えて、過去のセ・リーグ記録を更新した。過去の記録としては1963年の阪神・中井悦雄投手と昨年同じ阪神・村上頌樹投手の連続31イニングが残っていた。中井投手は、阪神では同じ関大先輩の村山実投手と並んで二枚看板として活躍した。これも何かの縁としか言いようがないが、実は、中井投手が61年秋に神宮球場で行われた全国大学野球選手権に関西地区代表・関西大学のエースとして出場した1回戦の相手チームが、私より1歳年長の兄が出場した東北地区代表・東北大学だった。
今では国立大学の東北大が地区代表として全国大会に出場するなんてとても考えられないが、当時は地区に現在の東北福祉大学のような強豪大もなく、2年連続で出場することが出来た。兄は二塁手で九番打者だったが、期待に応えられず、その剛腕中井投手に対して3打席すべて内野ゴロに打ち取られた。試合も確か3-0で東北大が敗れたように記憶している。兄は子どものころから足こそ早かったが、高校で硬式野球部に所属していたわけではなく、中学時代まで私らとともに草野球をやっていた素人上がりだった。それでも全国的にはレベルの低い国立大野球部の選手としては、それなりに活躍していたようで、地元の新聞には試合中の兄のプレイが写真入りで取り上げられたこともある。図らずも兄と間接的につながりのある往年の剛球投手・阪神の中井投手と接点があったとは奇縁であろうか、名誉なことでもある。実は、幸運なニュースについ心が時めいたのも、その兄が最近あまり優れない健康状態があったからである。
兄は残念ながら2年ほど前から認知症の入り口にたどり着き、幸い息子や、娘が近くに住んでいて常時見守ってくれているが、すでに妻を7年前に喪い、日常生活でも中々目が離せない状態である。この自慢できる話は彼らも知らない筈なので知らせてやれば、疲労気味の息子と娘の気休めにもなると思うので、少しは2人の慰めになるかも知れないと思っている。
6561.2025年4月30日(金) ベトナム戦争終結50周年に想う。
今から半世紀前の1975年の今日、10年以上に亘って南北ベトナムが争っていたベトナム戦争が、北ベトナム軍戦車部隊が南ベトナムの首都サイゴンへ進軍し、サイゴンが陥落して戦争は終結した。多少なりとも実戦の怖さを知っている者として、やれやれやっと和平が訪れたのかと待望していた終戦に心から良かったと感動したものである。ベトナム戦争については、当初欧米ではパレスチナ紛争ほど関心を抱かれてはいなかった。ベトナム戦争は、それまでの戦争とは少し趣が異なる戦争だったが、終戦により国際的に広く関心を持たれるようになった。
私は「60年安保闘争」には、高校ラグビー部の1年先輩である当時の全学連清水丈夫書記長に誘われ参加したが、反対闘争に参加して都内デモ行進中の写真が新聞に掲載されるようになった。それが、後々就職運動の際マイナスとなったが、当時はそれほど熱中していた。しかし、安保は我々学生や、労働者らの希望通りにはならず、日本は終戦直後とまったく同じ米軍による被占領国家と変わらない状態のままだった。安保闘争で希望は成し得ず、当時並行的に進められていたベトナム反戦運動に参加するようになった。それには小田急町田駅で新人駅員として改札口に立っていて、何人かのアメリカ軍のベトナム帰休兵と知り合い、彼らから戦争は怖い、戦場にはもう戻りたくないと彼らの本心を聞き、同時に彼らから戦場に行ってみろと言われたことから、実際に戦場へ行ってみようと思ったのである。
昭和20年太平洋戦争終戦の年に疎開先で国民学校(現小学校)に入学したが、ほとんど連日のように空襲があり、その都度近くのミカン山に掘られた横穴式の防空壕に逃げ込んで、「空襲警報解除!」の知らせを待ち望んでいたものである。学校の近くで米戦闘機編隊に襲われかかったこともある。その心臓に良くない恐怖感は、今以て忘れられない。
ベトナム帰休兵のベトナムの戦地へ足を踏み入れてみよとの声に誘われるように、1967年1月南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を訪れた。激しい戦時下だった。空港では観光客の姿を見ることはなく、軍服を着た米兵からは怖い目つきで睨まれる感じだった。空港でホテルを紹介してもらい、シャトルバスで市内のホテルに到着したが、カウンターで手渡されたのが部屋のキーの他に、マッチとロウソクだった。その理由を尋ねると、夜中に停電が多いので枕元に置いて必要の時に使うようにとのアドバイスだった。事実停電は頻繁に起きたし、郊外から大きな爆音が何度も聞こえた。これこそが戦時下の状態なのだと知った。翌日市内で米兵に銃を向けられるなど生身に危機感を感じる体験をいくつも味わった。ベトナムを去って間もなく外国人の入国は認められないほど双方の攻防は激しく、1年後にはテト攻勢が起きた。その戦場体験からつくづく知ったことは、戦場の怖い体験を実際に味わわないと戦争の怖さ、危険というものを本当に知ったことにはならないということだった。
現在の国会議員にはすべて戦争体験がない。中でも二階俊博元自民党幹事長が最高齢であるが、その二階氏ですら、私より若い。太平洋戦争の実体験がなく、況してや海外の戦争に触れたことがない政治家が、無節操に再軍備とか、憲法改正、敵基地攻撃能力などと言う言葉を安易に口走るのは、戦没者やその遺族の気持ちをまったく考えていないからである。
ベトナム戦争終結50周年記念に当たり、改めて想ったことはいっぱいある。