5557.2022年11月7日(月) 天才ピアニスト・ブーニンを通してロシアを見る。

 ウクライナへ侵攻したロシアの身勝手な言い分と行動には愛想を尽かしているが、これはリーダーたるプーチン大統領だけが悪いのではなく、ロシア人の本質とスターリン的帝国主義に基づく非民主主義的体質が関係しているように思えてならない。

 一昨日夜NHK・BSで天才ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンを描いたドキュメント「それでも私はピアノを弾く~天才ピアニスト・ブーニン9年の空白を超えて」が放映され、引き込まれるように最後まで観てしまった。ブーニンというそのロシア的名前は、早くからよく知っている。19歳の時ショパン国際ピアノコンクールで優勝して天才ピアニストとして持て囃される。その4年後の1988年、有名人となったブーニンはKGBの監視に身の危険を感じて母とともに母国ソ連から西独へ亡命した。ソ連が崩壊したのはその3年後のことである。ブーニンが母国を捨てたのは、著名人に対する監視に耐えられなかったことと、旧ソ連の自由と人権を抑圧する厳しいソ連式社会主義体制の締め付けがあったからである。ソ連政府はこれら芸術家を外貨稼ぎの道具とみて、同時に国威発揚のシンボルとして都合よく利用し、監視した。文化人が外国で稼いだ所得はその多くをソ連政府に掠め取られ、行動は常に監視付きで心の休まる閑もなかった。海外へ出かけてもその行動は、常にKGBに付きまとわれ、外国での演奏会も指図されかねなかった。

 KGBの監視がいかに気持ちを落ち着かせず、恐ろしいものであるかということは、実際に経験してみなければわからないものだと思う。かつて、東西対立時代の1983年旧東ドイツのカール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ)で、旧文部省教員海外派遣団と一緒に同地に滞在の間、派遣団は四六時中シュタージと呼ばれた東独のスパイ監視組織に付きまとわれ、教室で質問すると、応える東ドイツの教育者はいちいちシュタージの顔色を見て答えるように気持ちの休まることがなかった。我々視察団より我々を世話してくれた同地の教育関係者が随分迷惑をこうむっているようで気の毒だった。

 ブーニンもKGBの被害者のひとりであるが、幸い亡命することによって西欧では演奏活動を続けることが出来た。ただ、KGBの追求は逃れることが出来たが、その後は個人的に不幸にして左手が麻痺するというピアニストにとっては致命的な症状に襲われた。他にも転倒して痛めた左足が縊死し、手術を受けたことによってピアノのペダルを踏むのに苦悩したようだ。それらの苦労を乗り越え、ブーニンは長い9年間の空白期間の後に復活した様子が、このドキュメントで分かりやすく紹介されている。

 一時は復活を諦めかけた時期もあったようだが、本人の強い意思と日本人の榮子夫人の愛情溢れる支えがあったからである。八ヶ岳高原音楽堂の復帰公演における夫婦の睦まじい様子や、日本とドイツ・ケルンの間を往来する生活などがとても温かく、心を和ませてくれる。

 それに引き替え、ブーニンに愛想尽かしをされた旧ソ連と現在のロシアには、自由と民主主義が全く見られない。国際社会の厳しい非難を浴びながら、盟友・中国の支援を頼りに何とか無理して侵略戦争を戦っているとの印象が拭えない。

2022年11月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com