13年前に中学時代の恩師からいただいたハガキを読み返してみて、厳しいアドバイスに「普通の感覚ならそう考えるだろうなぁ」とある面で納得もした。その恩師は2年前冥界へ召されてしまったが、当時としてはそのご忠告はとても聞き入れられないものだった。2008年に韓国利川市で起きた倉庫火災事故を日本のメディアが報道しないことを私が批判した拙稿について、「なぜ、マス・メディアは真実を伝えようとしないのかと言う君の記事で初めて冷凍倉庫爆発事故で40名のお即死者を出していることを知りました」と私の言い分を評価していただいた。しかし、その一方でハガキの終わりの部分にこんな風に書かれている。「~旅もよいが、危険な国、危険な場所へは行くな!」と手厳しいご忠告をいただいたのである。私の海外武者修行を平素評価していただいていたが、それでも私の波瀾万丈な旅は危なっかしくとても黙っていられないという親心だったのだろう。
京都市立中学3年生時の担任教師だった清水義一先生の愛情が籠った厳しいご忠告である。この中学へは、3年生になってから転入し、ちょうど1年後に卒業したので、それほど多くの思い出があるわけではないが、遊び友だちも沢山いて、嵐山と桂離宮にほど近く居心地の良い学校だった。清水先生は私があまり得意でなかった理科を担当されておられ、いつか試験問題でリアス式海岸と九十九里浜がどうして海岸沿いが違うのかという問いについて考えよとの問題があった。その時答えられず空欄のまま答案を提出した。その後答え合わせで、「君は、答が分からないのか?」と尋ねられた時に、咄嗟に「答は分かっていましたが、考えよと書かれていましたので、考えました」と返答したら、私の悪賢い返事を疑っていたかも知れないが、それなら良しと言って私に点数をくれたことを懐かしく想い出す。そんなこともあったせいだろうか、時折手紙などでも首を傾げる問いをいただくことがあった。これもあれも懐かしい。これも少年時代の忘れられないメモリーである。
8年前に京都新聞の「旧交歓談」欄に、卒業後65年を迎えた我々の学年同窓会が取り上げられた。同級生30人がお2人の恩師をお迎えして京都市内のホテルで同窓会を開いたのである。先生とは卒業後も手紙による文通こそ続けていたが、お会いしたのはその時が卒業後初めてだった。寂しいことにその時ご出席されたお2人の先生はすでにお亡くなりになった。親しかった友人の1人も旅立たれてしまった。今では同級生も83、84歳となり、後期高齢者として健康維持に気を遣っている。
ついては、来月から後期高齢者は一部の人を除いて、医療費の窓口負担額1割が倍額の2割負担になるが、幸い過渡的な減額措置として、3年間は1か月の外来医療の窓口負担の増加額を3千円までに抑えるとの通達を今日区役所から受け取った。明日も白内障の手術を受けるように、最近医療費の支払い額が増えたので、これは大分助かる。
うっかりして忘れていたが、今日は今から55年前に高輪プリンスホテルで妻とお見合いをした日である。当時は「敬老の日」だった。それに肖り老いても健康で幸せな月日を送れればと願っていたが、息子2人に孫5人に恵まれ、幸いにも皆健康である。それだけでも佳しとすべきであろう。