充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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2167.2013年4月19日(金) 騒がしくなった文化の街・学園都市ボストン
アメリカ国内に凶悪な事件の連鎖ではないかと思える雰囲気がある。その初っ端に起きたボストン・マラソン爆発事件については、幼い子どもを含む3人の死者が出たことについて、オバマ大統領が犯人に対して強い口調で非難し、追悼式に夫妻揃って出席した。2人の容疑者については写真、動画が公表されていたが、銃撃戦の末身柄を拘束したところ、まもなく1人が死亡し、もう1人が逃走したというニュースが流れてきた。
昨日はテキサス州の肥料工場が爆発し、今日現在まだ鎮火しておらず、死者14名、重軽傷者160人と報道されている。そこへ、今度はボストン市郊外のマサチューセッツ工科大学(MIT)内で警官が殺害された。マラソンで爆破テロを起こした犯人が国際的に有名なMITで新たなテロを仕掛けようと忍び込んだところを発見され、逆に警官を銃殺したとの見方がある。マラソンゴール地点、MIT、そして警官隊と撃ち合ったウォータータウン住宅街などボストン市内で発生した一連の事件は住民を恐怖に陥れながら広がりを見せている。
しかし、このように物騒な事件が頻発するのは、アメリカ社会の矛盾と暗部が吹き出したからで、今に始まったことではない。
折も折、昨日オバマ大統領が精魂を傾けた武器規制強化のための法案が、アメリカ上院で否決された。政権第2期の最重要課題として同法案の成立を目指していた大統領は「ワシントンは大いに恥ずべき日だ」と反対した議員らを強く非難した。理念や危険野放しよりも、利己的な欲が勝ったというところだろうか。こんな拳銃による死傷事件が発生した日に銃規制法案が否決されるとは、何とも皮肉なものである。銃社会をコントロールすることは、いかにアメリカ民主義国家といえども思うようにはならないものなのだろうか。
オバマ大統領は失望の色を隠せず、今後とも銃社会を失くすために努力すると語ったが、今回否決された法案には同じ民主党内から裏切り者が出たことが大きなショックだったようで、それだけアメリカ国内の銃社会構造は複雑で根深いものがあると言えるだろう。
この間北朝鮮による強硬な挑戦的行為はつんぼ桟敷に置かれていた。しかし、北朝鮮は国際社会の厳しい反発と非難に対して、対話に向け条件を出してきた。それは、国連制裁決議の撤回と米韓合同軍事演習の中止である。後者はともかく前者はとても受け入れられる筈もなく、日本はアメリカとともにこれを断固拒否すると公表した。これで北朝鮮の選択肢はさらに狭まった。
今ボストン市内を逃走中の犯人はチェチェン人兄弟の弟で、兄は死亡したそうだが、写真も公開され、遅かれ早かれ逮捕されることになるだろう。北朝鮮だって振り上げた拳の下ろしようがなくなったように思えるが、どうだろうか。
2166.2013年4月18日(木) ビルマ人権活動家との懇談会に出席して
些か拍子抜けしてしまった。昨日このブログに浅田次郎著「黒書院の六兵衛」の主人公・的矢六兵衛の殿中における無礼な行動は本当なのかどうか疑わしいと書き、近いうちに作者の浅田氏に会ったら尋ねてみようと気楽に記した。ところが、昨日の今日、思いがけずその浅田氏に会ってしまったのである。
早速あの連載小説は面白かったが、あれは本当の話ですかと浅田氏に不躾に尋ねてみた。「いやぁ、あれはウソ、ウソですよ。だって小説ですもの」と浅田氏に笑いながら軽くいなされてしまった。まぁ小説だから浅田氏の言う通り、ストーリー通り真に受ける方がおかしいのだろうが、それでももう少し信じ込んでいる読者の気持ちも斟酌して作家としての思いも込め、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、少しはたぶらかせてもらった方が良かったというのが勝手な言い分である。
実は、今日兜町の日本ペンクラブ本部で「ミャンマーの作家・人権活動家マ・ティーダ博士との懇談会」があり、話を聴いてみたいと思い、参加を申し込んでいた。実は、これにペンクラブ会長として浅田氏が出席され、挨拶されたのである。出席者は円卓テーブルに座りマ・ティーダ博士を含めて23名だった。主宰したのはペン獄中作家・人権委員会で、委員長はペンクラブ常務理事で、直木賞作家でもある西木正明さんである。西木さんには先日元鎌倉市長の竹内謙氏からお誘いを受け入会することになった「鎌倉学会」について聞いてみた。西木さんは話を聞いていないということだった。早大探検部時代の同じ山仲間として親しい竹内氏が、鎌倉市とは直接関係ない西木さんには遠慮して連絡しなかったのかも知れない。
さて、今日の懇談会のゲストである、マ・ティーダ博士は外科医でありながら作家として活動し、ビルマの民主化のために闘い、1993年不幸にして投獄されたが、現在47歳の働き盛りである。ビルマの民主化運動の経緯について自身の獄中体験を含めて話をされたが、投獄された理由は4つあるという。①治安を乱した、②非合法組織との接触、③無断印刷物発行、④同印刷物配布である。この4つの合わせ技で20年の刑だそうだが、それでも6年で出所することができたと仰っていた。
博士のスピーチの後でイの一番に手を挙げて質問した。テレビでアウンサンスーチーさんが、憲法を改正したいと話していたが、改正のためには全国会議員の3/4以上の賛成が必要で、悪いことにはその国会議員の1/4が軍人である以上憲法改正は難しいのではないかと尋ねた。博士の答えは、確かに憲法改正は難しいが、その前2015年に実施される大統領選挙でアウンサンスーチーさんを大統領にさせたいと意欲的に語った。いずれも難しい課題であるが、それでも憲法改正より大統領になる可能性の方がやや多そうだ。ただ、彼女も現在68歳であり、仮に大統領になっても70歳を超えている。その後に山積する課題をクリアするのは、相手が民主化運動を弾圧してきた軍人だけにかなり厳しいのではないかと思う。
来日中のアウンサンスーチーさんは今日安倍首相と会談した際、日本の支援を得つつ、自分も努力していきたいと述べ、同時に日本の若者にビルマへの関心を持って欲しいとも訴えた。
マ・ティーダ博士が女性とは顔を見るまで気がつかなかったが、よく考えてみれば「マ」で始まるビルマ人の名前だから、少しでもビルマを知っている者なら女性だと気がつきそうなものだ。彼女は腰が低くて優しく、とても感じの良い女性で、私の質問にも丁寧に分りやすく応えてくれた。私がビルマへ度々行ったことがあると話したので、気安く話をしてくれ、名刺を交換して‘Selling Tours’誌1980年5月号に私が寄稿したビルマに関するエッセイ(日本語)のコピーを差し上げた。
今日の懇談会に参加して、マ・ティーダ博士のように地道にビルマの民主化運動に取り組む姿に感銘を受けた。
2165.2013年4月17日(水) ‘的矢六兵衛’江戸城を去る。
毎朝楽しみに読んでいた日経新聞の連載小説「黒書院六兵衛」が今日最終回となった。話の設定と進み方が奇抜で、謎を含んだような話の展開が読者を飽きさせない。この先どうなるのかと毎朝興味を持って読んでいた。その点では六兵衛の下城に合わせてストーリーが幕引きとなるのはちょっと寂しい気がする。
日経の連載小説は大体面白く及第点をあげられると思っている。今回浅田次郎氏の時代物が、舞台が江戸城内の奥座敷で、時代物によくあるチャンバラや、人殺しがまったくないというのも珍しい。死人が1人も出ない時代小説も極めて稀だと思う。
惹きこまれるように読んだ六兵衛の言動は、座したまま終始語らず動かずで、誰に対しても口を開くことなく、またほとんど殿中に閉じこもったままで動かず、あまりにも現実離れしているように感じた。330回の連載中ストーリーでは10ヶ月間も城内に引き篭もりっ放しで、僅かにほんの一部主人公六兵衛の屋敷周辺の挿話があるくらいである。
それより何より徳川時代が終末近く明治への移行直前期であるにせよ、まだ徳川の権威が城内で完全に失墜したわけでもあるまいに、城内にいる武士の誰もが得体の知れない武士・的矢六兵衛にまったく手を出さなかったり、狼藉者に近い城内侵入行為を止められなかった筋書きは本当に真実だったのだろうか。俄かには信じがたい。今度浅田氏にお会いした時にそっとその辺りを聞いてみたい。
さて、昨日イラン・パキスタン国境でM7.8の地震があったところだが、今日は東京でも午前中から何度か地震があった。震源地は三宅島でM5.2だそうだが、夜になって東北地方でも何度か地震が発生した。これは東日本大震災の余震である。先日の淡路地震と言い、今日の断続的な三宅島地震や東北地方の地震と言い、日本列島全体が活動期に入り天から揺さぶられているようで心中あまり穏やかではない。この際、危険な原発はもう絶対止めるべきだと思う。
2164.2013年4月16日(火) テロか? ボストン・マラソンで爆発
昨年に続いて小田急電鉄OBの社友会が小田急相模大野駅隣の「小田急ホテルセンチュリー相模大野」で開かれた。新規入会者が増える一方で、毎年亡くなる人もいる。だが、会員数が2400名を超えるというから一企業のOB会としては随分大きな組織になったものである。久しぶりに会った元同僚と話が弾み、先日会ったばかりの山岳部の仲間とも懐かしい話をした。また、小田急電鉄大須賀会長と山木社長から次回出版作品について期待と激励の言葉をもらった。
こういう場に来られる人は、健康で前向きな性格で昔の仲間と腹を割って話ができるからだと思っている。性格上こういう場は苦手という人や、会社に良いイメージを持っていなかったり、一切会社を去った以上もう組織から離れたいという人たちを除いて、元気なら出席する気持ちの人が多いと考えるが、中々そうとも言い切れない点が複雑なところだ。
例えば、高卒だったが優秀だったYくんとは昨年駅勤務以来の再会を喜び合い、拙著を送ったり、メール交換をしたが、しばらくして音沙汰もなくそれっきりとなり今日も彼は出席して来なかった。彼の身に何かあったのだろうか。また、10年前に会社を辞めてから今日久しぶりに会ったKくんは、何かおどおどして笑いながら後ずさりするような仕種をする按配である。偶々話をしていた先輩が彼はちょっとおかしいのではないかと囁いた。在職中は同じ職場で働いたし、海外へも何度か一緒に行って随分信頼していた。それなのに進んで挨拶や会話もしようとしない。一見して「おかしい人」のようには見えない。だが、顔を合わせるとそむけるわけでもなく、ニコニコしている。私より6歳若いはずだから、認知症ではないと思いたいが、ひょっとするとそうなのかも知れない。昔の仕事仲間だけに寂しい気持ちになる。
よく考えてみると近年周囲に同じような感じの人たちが多く見られるようになってきた。これも年齢のしからしむところであろうが、わが身を振り返ってそうならないよう今は適度な心身の運動を心がけている。
さて、今朝世界で最も歴史のあるボストン・マラソンのゴール近くで突然爆発があり、3名が亡くなり、140名以上が負傷した。走っていたランナーの中には、爆発と同時にコース上に倒れたランナーもいた。どうしてこういう馬鹿げたテロもどきの卑劣な行為をやるのだろうか。
このゴール地点は街の中心街にあり、近くにはボストン・レッドソックスのホームグランドであるフェンウェイパークがある。1976年に初めてボストンを訪問した時、ゴール手前を数歩走ってこのゴールラインを跨いだことが懐かしい。古い街だけに市街のあちこちに歴史の跡が染み付いている。
昨日は南北戦争のレキシントン・コンコードの戦いが始まった日で、アメリカ東部3州では4月第3月曜日を「愛国者の日」と呼んでいる。マラソンの日取りもそれを記念して開催されるようになったと仄聞している。独立戦争前に起きたボストン茶会事件があったのもこの街である。ボストン港から道路上に示されたルートを辿っていくと、いつの間にか歩いてボストン市内観光ができるような仕掛けになっている。現役時代にそのアイディアをヒントに、後年外人向箱根パック商品「ODAKYU EXPRESS」を企画し、苦難の末商品化したことが思い出されてくる。
昨4月15日、金日成の誕生日「太陽節」には何も起きなかったが、相変わらず北朝鮮の無法な恫喝が朝鮮半島を緊張させている。まかり間違っても戦火が起こるようなことがあって欲しくない。
2163.2013年4月15日(月) 30年前の出来事とその2年後の思い出
俗に「十年一昔」とか、「一世代三十年」と言われるが、今日東京ディズニーランドが開業30年を迎えた。たかが、一遊園地がよくぞここまで繁栄続けられたものだとその弛むことなき企画力と営業力に脱帽である。昨日の各新聞には大きな全面カラー広告を出して新たな仕掛けをPRしていた。
ディズニーランドと言えば本家本元のカリフォルニア州アナハイムに初めて行った時に、これは結構面白いと思ったが、これとほぼ同じ規模にして日本で営業しても、日本人の文化や嗜好に合うかどうか懐疑的だった。しかも計画自体が当時浦安沖埋め立て空き地跡を利用するというひょうたんから駒のような苦肉のアイディアと、スポンサー企業が三井銀行と赤字続きの京成電鉄だったことも、失礼を承知のうえで敢えて言えば赤字企業を予測させるものだった。
それが、今までの入場者数は5億6千万人に上るというから、日本人が一人当たり4回以上足を運んでいる勘定になる。私はまだ2回しか訪れていない。他には類のないほどの成功例であり、このすごい人気は今後どこまで伸びるのか空恐ろしいほどである。スケールは比較にならないが、この種の似たような施設は各地に山ほどあるが、これほど成功したエンターテイメントはない。
わが家でも初めて家族揃って出かけたのは、開業前の内覧会に義父の慶應幼稚舎時代の親友だった、首藤・初代東京ディズニーランド社長から招待券をいただいた幸運からである。聞けば今では、若者のデート・スポットにも利用され、最近では老若男女を問わず幅広い年代層がゲートを潜るそうだ。中には子どもから還暦記念に入場券をプレゼントされたという老夫婦もいた。
俗っぽい表現で「継続は力なり」とよく言われるが、この東京ディズニーランドの30年はいろいろな意味で評価される年月ではないだろうか。
時代とともに好みは変わる。この先東京ディズニーランドがどれだけ一時の幸せ気分を入園者に抱かせ、このまま入園者の期待に応えて、長く現在の成長トレンドを歩んでいくことができるか、見守りたいと思う。
さて、30年前の東京ディズニーランド開業から、その2年後を思い出させるエッセイが今日の日経夕刊に掲載されていた。日産自動車の志賀俊之CEOが「サッチャー元首相と英国工場」と題したエッセイを日経に寄稿している。日産サンダーランド工場設立に先日亡くなられた元首相が尽くされた努力に対して感謝の気持ちを綴っている。サッチャー元首相が今も国内で高く評価されている国営企業の民営化への移行の折、日産工場をイギリスへ招致し日産海外基幹工場として根付かせた功績を称えているのだ。
実は1985年9月文部省教員海外長期派遣団でこのサンダーランド(Sunderland)の北方15㎞にあるサウスシールズ(South Shields)で学校、教育施設を訪問したことがある。私たちはサウスシールズ市で女性市長主催の歓迎パーティに招待された。その折市長は日本人の優秀性を持ち上げ、日産の工場進出を雇用面の効果の点で高く期待し、日本とイギリスの友好関係が長く続くことを願っているとご機嫌で歓迎挨拶をされたことが強く印象に残っている。サッチャー首相ご臨席の下に日産サンダーランド工場が開所式を迎えたのは、私たちのサウスシールズ訪問からちょうど1年後の1986年9月のことである。
これは偶々すべてが上手く行き、日産工場進出万歳、イギリス病解決、サンダーランドで雇用創出など成果を上げる結果となった。すべてこうなれば言うことなしだが・・・。
すでに「一世代三十年」も昔のことになってしまったが、時折自分がトレースして思い出の残る時や場所が、歴史の舞台で演じられる「日本の海外成功プロジェクト」と結び付けられるのは、何とも言えず小気味いいものである。