ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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2217.2013年6月8日(土) 不意にススム・アイザワ大酋長のお墓参り

 朝ホテルの船着場にナンシーさんが、13歳の長男と3歳の末っ子息子を連れてスピード・ボートでやって来た。そのまま白波を蹴立ててトール島(水曜島)へ向かった。ひとつ気になっていたことは、森喜朗・元首相の父茂喜氏の戦時中の功績と元首相自身への感謝を込めて森家に贈ったとされ、元首相自身も誇りに思っておられる「森島」の存在をナンシーさんが知らないことで、島の人に聞いてもらったが、思い当たる人がいない。森さんからはウエノ島(春島)から水曜島(トール島)へ向かう小さな島と聞いていたので、小さな島々のシャッターを押し続けていたが、どうなることやら帰国後森さんへの話し方が難しくなってきた。夕食に末永さん夫妻をお招きして訪ねてみたが、アイザワ酋長の森さんへどんな表現で言ったのか分らないので、島は残念ながら見つからなかったとでもお話するより仕方がないと思っている。

 50分近くかかってトール島へ着き、やはり親戚が副村長を務めているマッカーサさんとアリンサさん家族を紹介される。大酋長が生まれたのはこの近くだそうだが、今では密林になっていて行き難いという。

 ススム・アイザワが育ったのはそこから海沿いにしばらく進んだ辺りだった。マングローブの生い茂る水路を数分進んだ地点でボートを降りた。小高い平地まで登ると目の前の芝生に綺麗な平屋があり、それがススムが子どものころから育ち、ナンシーさんも成長過程を送った家屋だった。近くには他に家々がなく、ちょっと寂しいような気がした。広いリビングルームの周囲には、ススムの写真や父親、そして家族の写真が飾られていた。これらの写真を大分複写させてもらったので、これも拙稿に利用できる。

 家屋の手前に小さな建物があった。覗いて見たら、ススム・アイザワ酋長のお墓である。ナンシーさんにお墓参りは明日のススムの誕生日ではなかったのかと聞いてみたら、明日は日曜日なので一日繰り上げ変更したとあまり気にしている様子はない。それなら出発前に9日にお墓参りを行うという連絡ではなく、繰り上げて8日に行うと言ってくれればそのように準備したのにと、意外な急展開にちょっと驚いた。そんな事情で折角持参したお線香とマッチ、それに数珠をホテルに置いてきてしまった。

 アイザワ家は全員クリスチャンで、墓石にも十字架が彫られている。遺体は土葬されこの墓石の下に眠っている。私も懐かしいアイザワ酋長を偲んで手を合わせた。額づいてふと横を見ると森喜朗・元首相の日英語の名刺がそれぞれ置かれていた。森さんは亡くなってから2度墓参りをしてくれたと親戚の方々は有難がっていた。

 ボートで再びウエノ島へ戻る途中の飛沫は物凄かった。波が荒くなりボートが縦揺れして身体中びしょ濡れである。ポケットに入れていた書類や手帳まで濡れてしまった。久しぶりにかつてペリリュー島からアンガウル島へ渡った時の大揺れを思い出した。幸いだったのは、空模様があまりぱっとしない中でスコールに襲われなかったことである。

 末永さんから面白い話を伺った。トラックで使われている言葉の中で日本語に近い言葉は、日本人が島へやってきて初めて見られた現象の日本語がそのまま現地語として使われているということだった。例えば、トイレがなかったので便所ができて「ビンジョ」、学校がなかったので「ガッコウ」「センセイ」「セイト」、食器を使用していなかったので「ショッキ」、初めて日本製自動車が入ってきたので「ジドウシャ」等々だそうである。単純なものである。

 われわれが考えてみて一番困るのはインフラとライフラインの未整備ではないかと思う。電気、上水道が行き渡らず、道路も舗装された箇所はほんの僅かである。税制も整備されておらず、結局はアメリカ政府の支援によって国が成り立っているということである。多くの課題を抱えた発展途上国である。アイザワ酋長は草葉の陰から、この島の現状をどう思っているだろうか。

2013年6月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2216.2013年6月7日(金) 酋長の娘、ナンシーさんに会う。

 トラック島、現在のチューク島とグアムの間には定期便が週4便しかない。そのうち、3便は朝便で1便が夜である。その朝便8:20発のホノルル行ユナイテッド航空172便に搭乗するため朝5時のモーニングコールで起こされた。昨日に続いて2日連続の早起きである。

 今朝ホテルで迎えの車を待っている間に腹立たしいことがあった。私の他に同じフライトに乗る若い男女の6人組みの内5人が、時間になっても一向にロビーに集まらない。とっくに出発時間は過ぎている。私は先に車で待っていたが、ガイドが待ちきれずに呼びに行った。漸く遅れた6人組みはやって来たが、待たせたことに対して「すみません」とか、「お待たせしました」の言葉や挨拶もなく、シャーシャーとして車に乗り込む無礼にむかっときた。こんな若造に文句を言っても始まらないので、知らぬ顔をしていたが、腸は煮えくり返っていた。「すみません」の一言がなぜ言えないのか。好青年もそこそこいるが、これが今様の若者風情である。

 綺麗な海岸のチューク国際空港に着陸した時に、あまりにも小さく素朴な空港ビルを見て以前は感じなかった「置いて行かれた国」とのイメージが浮かんできた。今では日本の地方空港でも見られないようなこじんまりした建物である。ホテルまで未舗装の悪路や貧しそうな家々を見て、これではいつか森喜朗・元首相がいずれ日本から直行便が飛ぶことを願っていると言っておられたが、現状は中々難しいのではないかと感じた。最近の島の様子がまだよく分らないが、島の発展の基盤を支えるビビッドな経済活動が見られないような気がする。現状を見ているとこのまま経済支援被援助国のイメージがつきまとってしまうのではないかという気がしてならない。今アフリカが資源産出国として国際社会から脚光を浴びているが、この中部太平洋諸島からは自然エネルギー資源が産出されないのが悔しいところだ。

 空港で入国手続きがのんびり進められていたが、スローですねと隣の外国人観光客に話しかけたらあまり気にならないとの応えに、「郷に入っては郷に従え」を痛感した。最後部に並んでいたが、トイレが我慢できず、トイレ探しに1人で別の建物へ向かっていた時係官から呼び止められ、トイレを探していると答えたところパスポートをチェックして親切にもトイレへ案内してくれた。愉快なのは、トイレを出たらスコールがやって来たが、係官がすぐに傘を貸してくれたことである。こういうところはのんびりしているが、島の人々のアトホームで優しいところだろう。残念ながらこれが経済発展にはつながらないことである。

 空港では、末永卓幸さんと仰るチュークの旅行業者として長年活躍しておられる方が奥様とともに出迎えてくれた。戦没者遺骨収集や慰霊団でもお手伝いをしておられるという。

 空港から懐かしい「トラック・ブルー・ラグーンホテル」へ泥んこ道を走りながらやってきた。以前泊まった時のイメージは確かに残っている。末永さんに聞いてみるとバンガローの壁色は変えたが、他は昔のままだという。ここでナンシーさんにアポ通り会うことができた。

 話してすぐナンシーさんの言葉の端々に父親のススム・アイザワ大酋長への思慕と愛情が感じられた。手帳に酋長と二人して金閣寺で撮った写真を大切に持っていて、見せてくれたことでもその親愛の情は分る。訪問の主旨はすでに伝えていたので、知る限りいろいろ話してくれた。しかし、酋長の学校通学歴がよく分らない。娘の言うことが一番正確だとは思うが、必ずしもすべてを知っているということでもない。まだ充分話を聞いたわけではないが、有難いことに私が父親のドキュメントを書くということに関しては極めて好意的で協力的であることである。その分益々責任を感じる。午後になってまた凄いスコールがやって来た。ホテルのベランダから海を見ていると激しい雨粒がたたきつけられている。これこそ南洋のシンボルである。

 さて、夕食の折のことである。実はホテル・レストランのパスタが美味くなかった。仕方なしにビールを飲みながら辺りを見回していたところ、お隣のテーブルでご夫婦がIpadを観ながら食事をされていた。見るとはなしにちらっと画面を覗いたところ、海底に沈んだ旧日本海軍船の残骸の稀に見るほどクリアで素晴らしい写真が後から後からアップされた。思わずお声をかけた。拝借できるものならぜひとも今取り掛かっているドキュメンタリーの紙面に使用したい作品である。お話ではわが家に極く近い三宿にお住まいの熊谷光剛さんと仰る歯科医ご夫婦で、ご夫婦で海底に一緒に潜って写真を撮っておられるという。私の希望をお伝えしたところ大変好意的に受け止めてくれ、写真提供にご協力いただけるとご返事をいただいた。これは大変助かる。

 明日は酋長の実家がある、トール島(水曜島)を案内していただけることになっている。

2013年6月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2215.2013年6月6日(木) グアムには昔の面影がない。

 今朝4時半に起きた。こんなに早く起きたのは久方ぶりである。妻に車で東急自由が丘駅まで送ってもらい、東急大井町線で大井町へ出てJRで大分早めに成田空港へ着いた。

 5月29日のブログに書き込んだように、グアム空港ではESTA承認により入国手続きは順調の筈だったが、何が原因か分らないまま入国管理官が3回も私の指紋と顔写真を撮ってじろじろ見ている。指紋は左右の親指と他の4本の指をまとめた写しを取った。最後には手間を取らせたことに恐縮していたが、何が原因かは結局分らず仕舞いだった。

 パッケージ・ツアーで手配を頼んだので、他のお客と一緒にバスでホテルまで案内してもらったが、南洋人特有の暢気さでガイドは同じ説明を何度も繰り返すし、ドライバーは左手に携帯を持ち、立ち寄るホテルの順番を間違えそうになったり、いわゆる南洋の風潮だなぁと不安になりながらもほのぼのとした感慨に耽る。ほぼ30年ぶりのグアム空港の雰囲気は以前に比べてまるで違っていた。ドライバーに聞いてみると5年前に新築されたそうだ。かつては空港の滑走路沿いに椰子の木が風に揺れていかにも南洋の情緒があったものだが、それも今は昔となってしまった。度々宿泊した「フジタ・タモン・ビーチホテル」は跡形もなく、近くの海岸へも出てみたが、当時を偲ぶよすがはあまり感じられなかった。

 ドライバーと雑談をしてみたところ、意外なことにサイパンでガイドをしていたことがあると知った。戦没者遺骨収集団のことをよく憶えていて、われわれもお世話になったベナベンテ・サイパン警察署長のことを知っていたのでお互いに顔を見合わせてびっくりである。今年はグアムでもサイパンでも日本人観光客の数は随分減ったと話してくれた。私が宿泊したグアム・プラザホテルで名残惜しくも別れたが、チャモロ族特有の人懐っこさと何となく好い加減な性格を思い出させてくれた。

 さて、明日お世話になるトラックの人々はどんな性格だったろうか、詳しくは思い出せないが、やはり南方特有の大雑把な人柄が何となく瞼に浮かんでくる。

 ちょっと懸念していたが、宿泊ホテルの部屋にはインターネットのサービスがなく、残念ながらこのブログを送信し、更新することができない。明日以降は多分大丈夫だろう。そう期待したい。

2013年6月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2214.2013年6月5日(水) いよいよ明日ミクロネシア連邦トラック島へ

 昨晩このブログの更新ができなくなり困りきって、いつもお世話になっているITコンサルタントの小糸さんに連絡し、彼の指示に従って修正し、夜中の12時半になってやっと難問解決となった。どうも入力容量が増えすぎて加重負荷になっているようで、こちらの指示通り動かなくなっている。ブログをいくつかに分けるなり、他のアイテムへ散らすような方法を考えた方が良さそうだ。問題は明日からトラック島へ旅行するので、トラック島滞在中に同じようなトラブルが起きると困ることになるとは思っている。

 さて、そのトラックへの取材旅行について今日関係のある森喜朗元首相事務所、ミクロネシア連邦大使館、藤沢市の相澤土地㈱相澤社長、佐々木信也さんへ電話で旅程を説明した。森さんには出発前にお会いしてから出かけたいところだったが、森さんが多忙のため事前にお会いするのは難しくなってしまった。ただ、森さんもできるだけ早く最近のトラック情報をお聞きしたいということから森さんのご都合を調整したうえで、森事務所長谷川秘書から帰国翌日の午後5時にアポが取れたと連絡があった。

 佐々木さんには改めて旧高橋ユニオンズ当時のチームメイトとの会合を設営していただけるようお願いした。いよいよ私の責任も重くなってきた。できるだけ意義深い貴重な情報をナンシーさんたちから収集して良い読み物を書き上げたいと考えている。

 過去にトラック島へは2度訪れているが、前回訪れたのが1982年であるからすでに30年以上が経過して、その間にトラック諸島もそれまでの国連信託統治領からミクロネシア連邦へと独立したので、恐らく今浦島ではないかと思う。興味が湧いてくる。久しぶりに見るトラック島の現状はどんなだろうか大いに楽しみにしている。案内してくれるアイザワ酋長の娘さん、ナンシーさんに会って懐かしい酋長の話を伺えるのも楽しみである。

2013年6月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

2213.2013年6月4日(火) 今日はどんな日か?

 長崎雲仙岳が噴火して火砕流に巻き込まれて大勢の犠牲者を出してから昨日で22年が経過した。その翌年現地を訪れ、土砂に埋まった家屋を目の当たりにして自然の怖さを知った。 

 さて、今日6月4日は戦時中日本中を唸らせた加藤建夫・戦隊長指揮する「第5飛行師団・飛行第64戦隊(通称‘加藤隼戦闘隊’)」戦隊会(六四会)開催の日だった。誇り高き「加藤部隊」の戦友がまだ多く存命していた時代には、毎年全国から数多くの戦友と遺族が靖国神社に参集され昇殿参拝をしつつ散華された仲間の霊を慰め、偲ぶ慰霊祭を行った所縁の日でもある。

 今から10年前までは、私も毎年六四会からお声をかけていただき、6月4日は必ず靖国神社に参拝したものである。今ではほとんどの戦友の方々は黄泉の国へ旅立たれた。かつての戦場へ何度ともなくお供して亡き御霊のご冥福をお祈りしたものである。何とも言えず懐かしい。あれから40年以上が過ぎて、思えば切なく寂しい気持ちがしてならない。

 戦友会の方々と出かけた海外の戦跡地のお参りが、仕事に対する私の気持ちを大きく変えてくれた。信念と確信を持って仕事に没入することができるようになったのも、長年戦友会慰霊団に携わったお蔭である。そして、そのきっかけとなったのが、1972年1月ビルマへ向かった飛行第64戦隊最初の慰霊団である。加藤部隊と縁のあるビルマ政府高官に、慰霊団全員が迎賓館に招かれ、それが翌朝の新聞やラジオで全ビルマに報道され、大きな話題を呼んだ。それ以後私も毎年6月4日になると靖国神社へ参拝した。その意味でも6月4日は私にとっては忘れられない日となった。

 ところで、外国では今日はどんな日だろうかと考えてみたら、自由と民主主義にとって大事な、決してかき消すことのできない一日であることを思い出した。1989年の今日、あの北京の天安門事件が勃発したのだ。東西冷戦が氷解したのもこの天安門事件が大きなきっかけとなった。同年11月ベルリンの壁が崩壊した。その意味では、歴史上社会主義社会、共産国家から自由主義社会へ舵を切る役割を果たしたのが、天安門事件であると言えると思う。

 ところが、これほどの歴史上稀有な事件が本家本元の中国では今や忘れられているらしい。否、忘れさせられているようだ。これは今朝の日経紙「春秋」で報じているが、中国の学生がこの事件をほとんど知らないという驚くべき事実がある。歴史教育や報道の自由については中国国内で相当厳しい締め付けがあり、それらに関しては大学の授業でも取り上げることができない。共産党政権にとって都合の悪いことは、すべて忘却の彼方へ投げ捨てられているのだ。最近ではまた新たな締め付けが始まったらしい。世界的な自由獲得のための闘争を、ただ党の路線発展のためには邪魔だと分れば直ちに隠蔽し、排除しようとする弾圧の構図である。

 実際今日この事件を伝えたNHKニュースが中国国内で放映されるや、瞬間的に画面から消されるほど中国当局も神経をとがらせていた。このまま言論を抑圧して果たして中国の人たちに民主主義が訪れるだろうか。

 こんな日経紙の皮肉なコメント「共産党政権の高官が『日本は歴史と向き合っていない』などと声高に話すのを耳にすると、つい苦笑したくなる」が皮肉に思えず俄然現実味を帯びてくる。

 夜になって久しぶりに最高のニュースが生まれた。サッカー・ワールドカップ予選で日本がオーストラリアと引き分けた結果、日本は来年のワールド・カップへ連続5回目の出場を決めたのである。メデタシ!メデタシ!

2013年6月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com