充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
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2222.2013年6月13日(木) お粗末!加藤プロ野球コミッショナーの対応
たかが野球と言う勿れ。昨日明らかにされた、プロ野球公式戦で使われる公認ボールが前年より飛ぶように調整されていた事件ほど非常識で、主役である選手たちを愚弄する行為はない。しかもこれほど日本野球機構の隠蔽体質を思わせるお粗末な事件もない。
この不祥事が分ったのは、昨年に比べて今シーズンのペナント・レースでホームランの数が約1.5倍に急増したことから、今年のホームラン数は少し多すぎるとの外野の声があったことからである。だが、問題はプレイする選手やチーム、審判ら当事者がまったく与り知らないところで秘密裏にことが決められ、ゲームが行われていた隠蔽行為である。プロ野球界にとっては「黒い霧」事件以来の大不祥事件だと思う。
昨夕開かれた野球機構の記者会見で、加藤良三コミッショナーは恥ずかしげもなくこの事実をまったく知らなかったと述べた。最高責任者がこういう発言をしたからと言って、この不祥事が許されるわけではない。しかもコミッショナーはこれだけ世間を騒がせておきながら、これを不祥事とは思っておらず、職を辞する考えはまったくないとまで言い切っている。
加藤氏は特別野球界に愛着を抱いて、これまで野球界のために貢献してきたという人ではない。外交官として駐米大使という地位も名誉も最高のものを得た一方で、偶々野球好きの生来の性格からアメリカでも評価が高く名誉欲を縦にできるプロ野球コミッショナーというポジションに就いた。だが、この人は今日まで果たして野球界の権威を守り、プロ野球人のためにどれほどの仕事をしただろうか。
昨年はすったもんだの末に、漸く選手会と和解してプロ選手たちは今年3月WBCに参加した。その際外交官上がりの加藤氏は、率先してWBC事務局との外交交渉に乗り出すわけでもなく、選手会が苦難に陥っても手を差し伸べることもしなかった。一貫して責任感の希薄な態度に終始した。
結局加藤氏は自ら手を汚すことはせず、成り行き任せのまま、代りの人物がことを処するケースが多い。当事者能力にも欠け、組織の長としての資格に欠ける。こういう人物をリーダーとして選んだことは、プロ野球界の悲劇だったと言えよう。
どうもぱっとしない事件で、ひたすら懸命にプレイする選手たちが気の毒に思えてくる。2度とこんなお粗末な事件を繰り返すことがないことを願っている。また一切の責任を取ろうとの気持ちもなく、事務局に責任をおっかぶせるような年棒2400万円のコミッショナーにはとっとと辞めてもらいたいものである。
2221.2013年6月12日(火) トラック島関係者に取材報告
今日はトラック島取材に関係ある方々へ電話で帰朝報告を済ませた。森喜朗元首相事務所の長谷川秘書には、昨朝になって今日のアポをキャンセルしたいとの連絡をいただいたので、確認をした。次のアポは1週間後辺りをメドに調整してくれることになった。
藤沢市の相澤土地㈱相澤社長には、藤沢市から寄贈された消防車が保管されていたことをお話し、併せて相澤本家を継承している方に何とかお会いできるよう仲介をお願いした。ミクロネシア大使館草柳大使秘書にも、ナンシーさんにお世話になったことを伝えた。佐々木信也さんには、近々元ユニオンズのマネージャーだった方を交えて食事をすることを了解していただいた。
現地のナンシーさん、末永さんにはお礼のメールを送り、偶々知り合ったダイバーで歯科医の熊谷さんには写真使用のお願いのメールを送信した。私が撮った写真もまずまず良く写っていたので、ほっとしているところである。
明日から少しずつ今回の旅行で得た情報を組み入れて執筆していきたいものである。
さて、今朝の朝日「プロメテウスの罠」の「テロ大丈夫か」と原発の安全性に疑問を投げかけている記事で、アメリカの非政府組織「核脅威削減イニシアチブ」が2012年1月に発表した安全度ランキングでは、日本は32か国中23位、「核管理が杜撰」という評価を受けていることが分った。とにかく日本の原発ではテロに遭ったらひとたまりもないということのようである。最高点がオーストラリアであるのは理解できるが、2位がハンガリーというのも不思議な気がする。それに比べて23位の日本の下にはロシアや、とかくの問題児北朝鮮がランクされている。昨年来日本に対してはいくつかの問題点が指摘されている。日本は核管理の後進性が評判を落としている。
日本の専門家とされる内藤香・核物質管理センター理事長の核管理見解にあ対する各国の専門家の目は厳しい。特に、アメリカの専門家からは、アメリカ並みの対テロ訓練をすべきだと強く批判されている。これに対して内藤氏は、「日本は日本の脅威に応じて考えればいい。アメリカと違いがあってもいい」と応えたが、こんな安全神話的な理解では他国の専門家を納得させることは難しい。内藤氏の安全を追い求めていけばコストがかかるとのあまりにも自己本位の考えに対して、安全対策にコストがかかるのは仕方がない。それが嫌なら原発を止めるしかないのではないかとも言われた。その通りだと思う。日本の専門家は、日本の原発は安全だと自信を持っているようだが、安全に対する認識という点ではまったくゼロではないかと思う。こうなると原発が危険である以上、安全対策に万全を期すことができないなら、誰が考えても原発は辞めるのが当然だと思うが・・・。
2220.2013年6月11日(火) 予定通りトラック島から帰国、明日からまた頑張るぞ!
ホテル・ロビーでチェックアウトを待っていたら、末永さんがトラック島の現状と歴史、特に戦時中の様子についてもっと詳しくお話したいとわざわざ早めにホテルへやって来てくれた。ナンシーさんの話だけでは、父親と親戚関係の話ばかりになって、戦争を知らない世代のナンシーさんはあまり空爆された戦争の事実関係を知らないのではないかと心配されたからである。レストランでコーヒーを飲みながら末永さんから貴重な戦時中の話を伺った。
水曜島のアイザワ家の話から海軍基地、飛行場、戦跡、慰霊巡拝、山本五十六司令長官の話まで随分参考になる話を聞かせてもらった。重要情報提供者としてトラック島で35年に亘って活躍されている方として拙著にぜひご紹介したいと考え、空港まで送っていただいたご夫婦の写真を撮らせていただいた。
チューク空港は国際空港とは言え、空港玄関前に何人ものお年寄りが座り込んで物売りをしている、いかにも南洋の島らしいのんびりした光景である。今や世界でも数少なくなった空港風景である。飛行機は予定通りチュークからグアム経由でほぼ定刻に成田へ帰ってきた。滑走路へ着陸してから空港ビルまで延々20もかけてゆっくり辿り着くとは、成田空港の特殊性とは申しながらスピード時代に随分のんびりしたものだ。
今回の旅行は30数年ぶりのミクロネシア連邦訪問だったので、多くの新しい情報を得ることができた。ススム酋長の生まれ故郷の島・水曜島(トール島)を訪れ、酋長の奥さんにお会いできたことも良かった。また、冒険ダン吉の曾孫・リンダさんにも会えた。しかし、山本長官らの司令本部跡や、旧夏島に残る海軍戦跡を訪れることができなかったのは残念だった。昨日聞いた話では、消防車の引渡し式が11月に決まったようなことを言っていたので、或いはそれへの出席も兼ねてもう一度訪れることも検討する必要があるかも知れない。明日以降じっくり考えてみたい。とにかくナンシーさんや末永さんを始め、幸いにして多くの方々と出会えて貴重な情報を入手することができた。174枚もの写真も撮ることができた。いよいよ明日以降にエネルギッシュに執筆しよう。
取り敢えず、少し体調は崩したが無事に帰れて良かった。今成田エクスプレス車内でこのブログを書きながら自宅へ向かっている。
さて、帰宅したら妻が今朝森喜朗事務所の長谷川秘書から電話があり、明日のアポを延期して欲しいと伝えてこられたそうだが、私にとっても写真のコピーなどを考えると、反ってその方が好都合である。しかし、できるだけ早く旅行のご報告をしたいと思っている。
さあ~て、明日からまた頑張るぞ!
2219.2013年6月10日(月) トラック島最後の1日
昨夜半突然部屋の周囲でざわざわと煩い音と大きな会話の声が耳に入り、ついに目が覚めてしまった。国際定期便昼の週3便の他に、日曜の夜便があると聞いていたが、その乗客らがチェックインして荷物を引き摺りながら階段を昇り、わいわい話ながら部屋の前を通って行ったからだ。いつまで経っても静かになる気配がないので、ついに堪りかねてドアを開け「静かにしろ!今何時だと思っているんだ。眠れやしない」と英語で叫んだ。ドアの傍にホテル係員がいて恐縮しながら謝り、若干静かになったが、しばらくするとまた物音と話し声が煩い。ミクロネシア系と白人の男女らが時間帯を気にもかけず、声高にわが者顔におしゃべりしながら通り過ぎて行く。もう苦情を言うのは諦めた。
昨晩のでき事について今朝ホテルのフロントにクレームをつけたら、知っていたのか平謝りだった。夜便に乗る宿泊客のチェックアウトと、到着したチェックイン客で迷惑をかけたと謝り、当たり前であるが平身低頭だった。過ぎたことはもう仕方がないにしろ、ホテルマンの言い分がふるっている。この次来られたらもっと静かな部屋を提供するというものだった。サービス業の典型であるホテル・ビジネスというものの本質がまったく分っていない。やはり南洋の島らしく、サービス業も漁師も同じようにのんびりしている。
因みにノンビリズムはまだまだある。朝食の際オーダーしてから食事が出されるまで約40分もかかり、テーブル上には前の客が食べ残した料理が残ったままだった。チューク州で最高のホテルと呼ばれるこのトラック・ブルー・ラグーンホテルにしてこの体たらくである。エアコン、電話が故障中でいくら修理を依頼してもまだ直らない。こんな手抜きばかりやって大丈夫かなぁとホテルの将来性が心配になってくる。
さて、前々からススム酋長が開拓し拡張した‘SUSUMU’S STORE’と藤沢市が寄贈した消防車を見たいとお願いしていたが、いずれも今日その願いを叶えることができた。‘SUSUMU’S STORE’は以前に比べてさらに立派な施設になっていた。全体の敷地面積なら建物と駐車場を加えて優に5百坪は超えているだろう。スーパーの隣に独立した小さな事務所があり、部屋内に酋長が羽田孜・元首相を訪れた時の写真が飾られていた。扉の入り口に‘SUSUMU’S ENTERPRISES’と書かれていた。父親の後を継いで今やナンシーさんはここの社長である。
その後に消防車が保管されている港の倉庫に行って、錠を外してもらって内部に入れてもらい「藤沢市消防本部」と「寄贈ふじさわ湘南ロータリークラブ平成25年3月」と書かれた消防車を見せてもらった。他にもオーストラリアから寄贈されたもっと大きな消防車と日本から贈られたタンクローリーが保管されていた。
アイザワ家の家系も大分分ってきた。明日トラック島を去るが、有意義な資料と多くの話を聞けて良かった。今晩はお世話になったナンシーさんのご家族6人、そしてモーターボートや車を運転してもらったアイザワ家と親しい2人を夕食にお招きして、感謝の気持ちを込めて晩餐会を行いお別れを告げた。収穫の多い取材旅行だったと思っている。ご期待に応えて何とか読み応えのあるドキュメントに仕上げたいものである。
2218.2013年6月9日(日) 故森正隆さんの娘さんにお会いする。
今日はナンシーさんの夫であり、「冒険ダン吉」のモデルともされた森小弁の曾孫でもあるエリクソンさんが車で案内してくれた。
とにかくチューク島はインフラの中でもとりわけ道路が劣悪である。街の中心街へ向かうメインストリートが穴ぼこだらけで、そこへスコールのせいで水が溜まっているのでゆっくりと、しかも泥水の中を運転するのだから車は傾くし、揺れるし、車も痛む。話によれば前田建設が請け負って道路整備計画を推進しているようだが、まだところどころしか完成していない。これで予定通り今年中にでき上がるのだろうか少々気になる。
今日一番驚いたのは、敷地内に遺骨収集と戦没者の記念碑がある森正隆さんのお店へ立ち寄った際、店の前でひとりの女性が話しかけてきた。森さんには遺骨収集の際随分お世話になった。その女性が森さんの娘のリンダ・モリ・ハートマンさんだったのだ。森さんには生前2度お会いしているが、温厚でアイザワ酋長とは大分タイプの異なる方だった。リンダさんはエリクソンさんとは従兄弟同士で、森小弁の曾孫にして現在52歳、しかもマニュエル・モリ現ミクロネシア連邦大統領の実妹でもある。父親の森さんには2度お会いしていると話したらびっくりしておられた。今回の訪問の主旨をお話してメール・アドレスを交換したので、これからも交流していきたいと考えている。
アイザワ酋長が通学していた学校を調べているが、何せ戦前から戦中にかけての波乱の時代で当時を証言してくれる人が見つからず、少々往生している。戦時中「国民学校」と呼ばれて現在も古い小学校として残っている建物の写真を撮りまくっているが決定的なものではない。況してやや好い加減な一面のあるトラック島の空気を考えると、ある程度の推察を加えて状況証拠で話をまとめるしかないのかも知れない。
アイザワ家も日本流に考えると中々複雑で、ナンシーさんの兄弟姉妹にはスミオ、スミレの2人を含めて最低2人はいると聞いていたが、どうやら酋長と母エンキエーナさんとの間の子はナンシーさん一人きりで、後の兄弟姉妹というのは酋長と○号さん、○○号さん等々との間にできた兄弟姉妹のようで、彼女がハーフ・ブラザース&ドシスターズは大勢いると言っていたのは、その辺りのことを指しているらしい。あまり立ち入って聞き難い問題である。酋長は佐々木信也さんには俺には子どもが23人いると豪語していたらしいが、この問題をドキュメントとしてどう取り扱い、どうやって表現するか、やや悩み、また頭の痛いところでもある
明日は藤沢市が寄贈した消防車を見せてもらい、アイザワ酋長が手広く経営していた「ススムズ・ストアー」を見学してみたいと思っている。