充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
ブログ一覧
2257.2013年7月18日(木) 恩師・飯田鼎先生を想う。
6月に赤松さんの上野浅草フィルハーモニー定期演奏会の後、飯田ゼミ関係者で夕食会を行った際、私が出しゃばって次のような提案をした。
昨秋私が不束ながら編集委員長を務め、発行した飯田先生の追悼文集を配布した飯田会を最後として一応飯田会を解散することになったが、全会員に今年5月先生の3回忌にお花を届けたこと、会の剰余金を一定期間毎年ご命日に供花を送ること、等々を知らせることが必要であると説明して了解をいただいた。今月に入ってこれらの点について説明した手紙を私の名前で全会員に郵送した。
それに対してここ数日多くの会員から感謝の手紙をいただいた。やはりそうすべきであると考えてくれた会員が多いようだ。偶々行きがかり上私が犬馬の労を取った形になったが、予想以上に喜んでいただけて本当に良かったと思っている。後は今後しばらくご命日に供花を送るためにきちんとフォローすることと、会員からの問い合わせに対する対応をすることで、飯田会の作業は終わりにしたいと考えている。
いただいた手紙の中にも書かれていたが、何と言ってもわれわれゼミナリストにとって飯田鼎先生という素晴らしい恩師に巡りあえたことは最大の幸せだったと思う。60年安保闘争という激動の中で送った学生生活は間違いなく充実したものになった。ゼミではゼミナール委員を務めた割りには、あまりお役に立てなかったことを反省しているが、それでも先生は許してくださるのではないかと勝手に考えている。そのうえ、卒業後も度々先生のお宅をお訪ねしては随分ご指導していただいた。誰もが尊敬する素晴らしい先生の下で三田の2年間を過ごして、良い思い出を残すことができた。充実して幸せな学生時代を過ごすことができたということは断言できる。それは取りも直さず飯田先生のお蔭である。心より感謝している。
2256.2013年7月17日(水) ケニア・モンバサの印象
一昨日ケニアの港町モンバサで建設会社の日本人が殺害された。懐かしく感じた都市名だったが、実情を知ってちょっとがっかりしている。
このモンバサにはいろいろな意味で思い出がある。1968年1月首都ナイロビを訪れた時、他にどこへ行こうかと考えた。
最初に1泊サファリツアーへ参加しようと考えた。草原を象の群れが轟音を響かせて走り去る勇壮な姿に圧倒されたり、アメリカ人の青年とルームをシェアしたバンガローでは、月光の下に窓際まで近寄ってきたシマウマの大群に驚いたり、ファンタジックで楽しい思い出が沢山ある。
それからタンザニアへ入国してキリマンジャロ山麓へ行ってみようと思いつき、ナイロビから夜行列車でモンバサに翌朝着いた。しかし、これは一旦取得したタンザニアの入国ビザは私の旅券が条件不充足の理由で、すぐキャンセルされてしまい夢は叶わなかった。翌日路線バスに乗ってナイロビまで帰ってきた。この時幻のビザを取得したのが、モンバサだった。
駅からメイン・ストリートを歩いて通りがかりのホテルに何の気なしに宿を取り市内を歩き回った。涼しげな夕方になって灯台方面へ歩いて行ったところ、インド人父娘が近づいてきて、灯台へ行くのならあの辺りに怪しげな男が2人入って行ったはずだから近づかない方が良いと注意された。そんな危険な感じはしなかったが、土地の人から親切にアドバイスされたので、灯台へ行くのを思い留まった。あの時薄暗い灯台方面へ行っていたら、危険な目に遭っていたかも知れない。親切な人もいるものである。
それにしてもモンバサは近年殺傷事件も多発して随分危険なところだとメディアでは報道しているが、あの当時市内の空気にはそんな危険な雰囲気はあまり感じられなかった。テレビの画像ではモンバサには部分的には記憶があるが、かつて私が訪れたころの港町の面影は見られない。ケニヤは独立の父・ケニヤッタ大統領時代には国全体が落ち着いているという印象だったが、国の経済発展とともにがさつな感じが増してきたように見える。
モンバサで訪れたことがあるフォート・ジーザズが昨年世界遺産に登録され、モンバサの良い思い出を突然甦らせてくれたが、今度は逆に悪い印象を与えられた。折角の楽しい印象が潰れるのは何ともがっかりである。
2255.2013年7月16日(火) ペンクラブ例会も夏枯れか。
駒沢大公開講座のうち、「現代日本政治と報道論」は今日が今学期最終日となった。5日後の参議院選の話題に終始した。菱山郁朗講師は、自民党の圧勝に終わるだろうとの各新聞の予想を話されたが、もしそうなら日本の将来にとって危険信号だろう。今日は珍しく全学連中核派の話が出た。参院選に東京地方区に立候補している俳優・山本太郎にその中核派が応援メッセージを送ったという。中核派は今世紀に世界革命を起こすことを宣言している。どちらもどの程度本気なのか。授業後の僅かな時間に菱山講師と個人的に政治な話をしたが、どうも先行き暗い話になる。
さて、講座終了後地下鉄を乗り換えながら日比谷の東京會舘へ何とか開会時間までに間に合った。ペンクラブ7月例会だが、やはり暑さ負けか、参会者が少ない。一昨日小中陽太郎さんの小田実7周忌、並びにパリ祭記念キネコ撮影会で盛り上がった参加者がほとんど出席していない。例年のことながら参加者が少ないのはやはり寂しいものだ。
今日話をしようとしていたのは、浅田次郎会長である。先日書いたエッセイを掲載したJN紙をペンクラブ事務局気付で郵送したが、まだ手にしていないという。ちょっとがっかりである。6日に投函したので、8日には事務局へ届いていると思う。事務局にコンプレインを言った方が良いと思っている。コピーを持参したので、それを手渡しして「黒書院六兵衛」について四方山話をすることはできたが、浅田氏も六兵衛については依然強い関心を持っていると言っていた。近い内に単行本として出版されると言っていたので、改めて読んでみたいと思っている。
2254.2013年7月15日(月) かつてのラグビー仲間、またひとり黄泉の国へ
このところの暑さは異常である。近年平均気温が少しずつ上昇し、北極海では氷が溶け出し、北極海の国際間の海底資源の取り合いや、北極海路の通行権などが取り沙汰されるようになった。また国際間の紛争の火種が起きなければ良いと思う。
テレビでも連日熱中症の危険性を報道しつつ、その予防のために扇風機やエアコンの利用を呼びかけている。先日寺島実郎・多摩大学長が、節電を要請すべき時期に今年はその声が一向に聞かれず、むしろ冷房など電力使用を勧めているような印象を与えていることは、電力が充足されていることになり兼ねず、これ以上原発が必要ないと言っているようなものだと述べていたが、まったくその通りである。
さて、日本でもヒマラヤの秘境王国として、また穏やかな若き国王夫妻の存在で知られ、国民総幸福度世界一として国民が世界で最も幸せな国と言われるブータンで、現政権が国民議会選挙の結果を受け野に下ることになった。野党の人民民主党の地すべり的勝利は、若者の失業が増加したことが主要因であるが、現政権が中国へ接近を図ったことにより永年政治的、経済的に緊密な関係にあったインドとの関係がこじれて、インドが経済支援を停止した結果、家庭用ガス代が2倍に跳ね上がり生活を直撃したことが致命的だったようだ。これでは当分の間世界一幸せな国民も形無しである。
ところで、今朝近所に住むラグビー部の和田正温先輩から同期の「なべさん」こと渡辺誠さんが亡くなったと知らせてくれた。和田さんや私と同じFW仲間として私も一緒にスクラムを組んでいた。身体も大きくその圧力は相手に相当圧力を与えていたと思う。私の先代キャプテンで鷹揚な人柄が多くの人に好かれていた。卒業してからほとんどお会いすることはなかったが、昨年3月岩田明・初代ラグビー部OB会長追悼集会で久しぶりにお会いした時、随分やせてやや元気がないような印象を抱いた。医師だったが、すでに辞めたと言っておられたので、健康が優れなかったのかも知れない。仕事を辞められ、時間的にも余裕ができてこれから好きなラグビーに時間を注いでくれるのではないかと期待したが、残念なことになった。知人が亡くなるのは本当に寂しい。心よりご冥福をお祈りしたい。
2253.2013年7月14日(日) 小田実脚本、小中陽太郎演出のキネコを観る。
パリ祭の今日、間もなく7周忌を迎える小田実さんを偲ぶ映画会と座談会が岩波セミナールームで開かれた。その映画とは、小中陽太郎さんがNHK名古屋支局時代の1962年に小田さんの脚本を演出した「しょうちゅうとゴム」と題する奇妙奇天烈なドラマで、日本の高度経済成長、四日市公害問題にからませて百姓が土地を売り、企業は下請けを使って潤う社会の矛盾をついたようなテーマだった。私はこれまでに2回観ている。最初観たのは、6年前の4月で小田さんが亡くなる3ヶ月前だった。その時小中さんが小田さんの余命は幾許もないと沈痛な顔で話されたことが記憶に残っている。
しかし、天下のNHKがよくもこういう自由奔放で、ちょっと意味が分らないような作品を若手ディレクターに任せたものだとか、ハチャメチャな作品だとか、漫画を上手く取り入れているとか、とにかく今ではとてもこれに似た作品は作れまいという声が強かった。
小中さんが演出した当時は、テレビの録画技術がなく、作品はすべて生放送で、作品がそのまま記録として残されることはなかった。それが幸いに残っていたのは、偶々和田勉さんがキネコとして、映像を撮ってくれたおかげだそうで、それをNHKを辞める時小中さんが持ち出したままになった幸運によるものだそうである。まったく何が幸いするか分らない。
そのおかげで今我々が、60年安保闘争直後の時代の空気と世相を動画として知ることができる。
前座で話された作家四万田犬彦氏、音楽を担当された高橋悠治氏、大島渚監督の二男・新氏のトークも中々面白かった。大島新氏がこの作品が作られた時、小田さんはどれほど名を知られ、存在感があったのかと質問したのには、時代性を感じた。同じようにテレビ番組を作っている新氏は、現代は制作に制約が多いと小中さんが作った時代を羨んでいた。新氏は湘南高校の30年ほど後輩に当る世代なので、昔の自由な時代を羨むのも無理ない。
何度観てもわかりにくい映画であるが、時代性を感じさせてくれる。なかなか面白い映画だった。
終わってから「山の上ホテル」でパリ祭に因んだワイン会があり、ペンの知人とも久しぶりに世間話で寛いだ。