充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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2442.2014年1月19日(日) ベトナム戦争番外事件
昨日の朝日新聞夕刊の「昭和史再訪」に、若いころ極めてショッキングな事件としてベトナム戦争下の社会を驚かせた、アメリカ海軍兵脱走のニュースが取り上げられていた。事件が報道されたのは、1967年11月13日付新聞である。ベトナム戦争は日一日と激しさを加え、当時われわれもベトナム反戦のデモ行進をしていた。米軍兵士4人が横須賀港に停泊中の原潜「イントレピッド」から脱走したのは、10月28日だった。彼ら4人を横浜港からソ連客船バイカル号に乗せ、日本領海を出た時点でべ平連が記者会見を開き、この事実を16㎜映写フィルム上映で発表し、世間を驚かせた。そのフィルムを撮っていたのが小中陽太郎さんで、その後小中さんからこの鮮烈なフィルムを機会あるごとに度々見せてもらった。
このフィルムの中で主に喋っていたのが小田実さんだった。今朝電話で野村故堂賞を授賞された祝賀会の件で小中さんと話していて、偶々その件に触れたところ、新聞記事にはもっと他に記載されなかった話をしたが、スペースの都合で紹介されなかったと話しておられた。
当時はノン・ポリは別にして、日本中ベトナム反戦運動の渦中にあったと言ってもいい。私がベトナムへひとりで出かけたのも、その年の1月だった。戦争の恐ろしさを小学生の頃とは違う臨場感で感じたのは、まさにこの頃だった。
1975年4月ベトナム戦争は終結し、南北ベトナムが統一されて漸く独立した社会主義国家となった。その後2000年に一度だけベトナムへ行ったが、街から戦争ムードは消え去り、時代環境が急変し、若い人たちも戦争を実感として感じていないようだった。北ベトナムをソ連とともに支援していた中国は、しばらく友好国としてベトナムと蜜月関係にあったが、いまでは南シナ海の西沙諸島問題がこじれて、むしろ対立するようになってしまった。いま両国の外交関係はベトナム戦争後最悪である。
今日テレビでベトナム国内の中国の西沙諸島占拠に対する抗議集会を映し出していたが、40年前の今日島が占領されたという。ということは、当時終戦1年前でベトナム戦争はまだ終わってはいなかったという点から考えると、中国はすでに終戦近いことを予感して友好国ベトナムの信頼と油断を見透かしだまし討ちするように一気に西沙諸島に上陸占拠して自国領にしてしまったのではないか。いかにも中国らしい狡猾なやり方だ。
それにしても問題を目にするたびに嫌な時代ではあったが、一面懐かしさも蘇ってくるものである。
さて、また訃報である。政治評論家として知られた毎日新聞特別顧問の岩見隆夫さんである。肺炎のため昨日78歳でお亡くなりになった。切れ味鋭い政治評論で名を成された。岩見さんは江戸城の再建に強い関心を抱き、「サンデー毎日」でも江戸城再建を訴えていた。「江戸城天守閣を再建する会」顧問を務められていたので、何度かお話をしたことがある。今年年賀状をいただかなかったので、ご健康を気にしていたところだった。来月「江戸城天守閣を再建する会」の総会があるが、もう一度お話してみたかった。心よりご冥福をお祈り致したい。
2441.2014年1月18日(土) どうなるのか。都知事選
来る23日に告示され、来月9日(日)に投票日を迎える東京都知事選の様相がおかしくなってきた。細川護熙・元首相は、原発ゼロを掲げて立候補正式表明をする際に原発政策以外の政策も併せて発表する予定だったが、その政策がなかなか決まらないようだ。その一方で、すでに正式立候補を表明した宇都宮健児氏と舛添要一氏はいくつか政策課題を提起した。
いま一部で話題に取り上げられているのは、細川氏には首相辞職の原因となった佐川急便から資金提供されたことが不透明だとの批判である。偶々猪瀬前知事が資金提供を受けたことから辞任せざるを得なくなったタイミングの悪さもあって、ここへ来てこれが蒸し返され改めて資金を返済したのかどうかが一部で問題視されている。
一方、細川氏を応援する小泉元首相の息子・進次郎自民党議員の父親を遠まわしにかばったように受け取られた発言、つまり自民党の舛添氏への支持には大義がなく、自分は支持しないとの発言に対して自民党都議連は反発し、舛添氏を支持しないとの言動を差し控えるよう進次郎氏に要望した。それは反って進次郎氏には魑魅魍魎の中から解放し肩の荷が取れホッとしたのではないか。進次郎氏も素直に受け入れた。
ただ、これは都合次第で党の結束を強調する自民党の方がむしろおかしいと思う。舛添氏は自民党に対して後足で砂をかけるように、自民党に未来はないと捨て台詞を残して去って行った。腹に据えかねた自民党は舛添氏を除名処分の重い罰を課した。普通ならこれだけ相手を非難し合ったなら金輪際関係修復は困難なところである。それが、自民党には候補者が見当たらないため、除名処分をひとまず棚上げし、舛添氏の知名度に縋っていとも容易く舛添氏支援へ回ったという。何とも節操のない話ではないか。
こんな混乱した状態の中で、党利党略だけで大事な都政を任せられる知事が選べるのか疑問である。
それにしても、舛添氏を支援しようという自民党も自民党だが、恥も外聞もなく旨い話なら自らの信念とか、矜持をかなぐり捨てて縋りつく舛添氏も舛添氏だ。新次郎氏が舛添氏には大義がないというのも理解できる。舛添氏には信念とかプライドなんてないのだから、都政を運営することなんかできる筈がないではないか。
舛添氏への自民党支援は理解に苦しむが、これから細川氏が打ち出す政策次第ではまだまだ一波乱ありそうだ。
2440.2014年1月17日(金) ルバング島より生還の小野田寛郎さん亡くなる。
フィリピンのルバング島ジャングル内に29年間潜んだ末に発見され、日本へ帰還後ブラジルで自然を相手に牧場を経営したり、日本で子どもに自然との付き合い方を教えていた小野田寛郎・元陸軍少尉が91歳で亡くなられた。重爆撃機部隊の第1回飛行第12戦隊南方基地慰霊団がビルマへ向かう折に、小野田さんがルバング島から帰ってきた日航特別機と羽田空港で時間的にかち合い、われわれも取材され翌日の新聞に掲載されたことがある。日本軍人として帰国する人がいる一方で、亡くなった戦友を慰霊するためかつての戦跡地を訪問する戦友がいるという視点で取材された。確か「往く人帰る人」というテーマだったと思う。今晩のNHK「ニュース9」でちょうど小野田さんが搭乗した日航特別機が羽田へ到着したその時のシーンを映し出していた。慰霊団とともに、あの日のことはよく憶えている。懐かしい。
小野田さんは、陸軍中野学校の出身で工作員としてフィリピンへ派遣された。しかし、帰国後の小野田さんの生き方には、スパイ工作のような陰湿なイメージは感じられず、むしろボランティア活動で子どもたちに自然の中で生きる知恵を教えるために塾を開いたり、フィリピンの子どもたちの育英資金を寄付したような行為が目立つ。生きることと生き方について強い信念を持っていた人だと思う。
その後小野田さんは、グアム島から帰還した横井庄一さんといろいろの面で比較されたが、その比較論を遺骨収集団でご一緒した団長から伺った話として執筆中のノン・フィクションの1章にちょっぴり取り上げた。団長は2人の性格は大違いだったと仰っていた。
さて、今日は神戸・淡路大震災から19年目になる。早いものでいまの高校生より若い人たちは震災を知らない世代になった。あの朝起きてテレビで惨状を知り驚いた。まもなくして地球の裏側のリオ・デ・ジャネイロの知人、アーリンド・フルタードさんから親戚や友人に犠牲者はいないかと見舞いの電話があり、彼の友人を思う優しさと気遣いに感激したことを思い出す。そのアーリンドさんも最近は高齢のため、ブラジルの南部都市へしばしば転地している。どうも健康面が優れないようだ。
地震と言えば、1999年8月17日のトルコ大地震にトルコの古都チャナッカレで遭遇した時の衝撃は忘れられない。その後この時自分の目で見て体感したことが、臨場感の感得として執筆面で大いに役立っている。
地震の都度わが家の屋根瓦も耐震上軽量化されたスレート状の材料を使った屋根に変えた方が良いと言われている。実際近所の和風家屋でも瓦屋根の家はほとんど見られなくなった。屋根を変えることはぜひやりたいと思っているが、費用もかかることであり、いま直ぐというわけにはいかない。しばらく考えたい。
2439.2014年1月16日(木) 無責任で嫌なニュースが多い。
拙著に掲載する写真を森喜朗事務所から送ってこられた。希望通り森元首相がラグビーのジャージーを着た写真、森氏親子とアイザワ大酋長が1枚に納まっている写真の他に「私の履歴書」書と後援会関係の冊子を送ってくれた。冊子には軍服姿の父親の写真もあるので、長谷川秘書に電話したところ、写真を送ってくれることになった。文章は引き続き推敲を続けるとして一応形はできたことであるし、大分写真も揃ったので、明日にでも出版社をお任せしている清田義昭・出版ニュース社社長に連絡してみようと思っている。
さて、あんまり良いニュースがないが、メディアを騒がせている暗いニュースが2つある。
ひとつは、問題ばかり起こし事故を起こしている不良会社、JR北海道の実力者として知られている相談役の遺体が海上で見つかった。どうも自殺のようだ。この会社は2年半前にも現役社長が同じようにオホーツク海に入水自殺して物議を醸した。いずれも事故を起こしたり、不祥事を隠蔽したり、書類を改ざんしたりして国交省の特別保安監査の最中に責任者が自らの命を絶っている。無責任にもほどがある。直近の自殺者は、中々のやり手としてメディアでも度々取り上げられていた人物である。そういう人物が火中にある社員を放って逃げ出す無責任さが頻発するというのは、本人ばかりでなく、会社の体質が大きく影響しているのではないだろうか。情けない会社である。
もうひとつは、広島県の瀬戸内海で起きた船舶同士の衝突事故である。同じ船とは言っても、一方は全長178mに排水量8900㌧で、搭乗員135人の海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」であり、他方は全長7.8mの小さな釣り船である。衝突したら釣り船なんてひとたまりもない。船長ともう1人が亡くなった。
1988年7月に横須賀沖合で海上自衛隊の潜水艦が大型釣り船に衝突し、30人が亡くなったが、その犠牲者の中に次男の中学校の上級生がいた。
それにしても波はなく白昼快晴で見通しの良い海上で、どうしてこうも簡単に衝突を起こすのだろうか。お互いの言い分に食い違いがあるようだが、これまでにも海上自衛艦は度々事故を起こしている。われわれ素人の目から見ると、絶対衝突しそうもない状況の中でどうして度々同じような事故が起きるのだろうか。
気の緩みがあったのではないか。見晴らしが良かったので、つい安心して目を離した隙にぶつかってしまったのではないかと思っている。防衛省も「初心忘るべからず」の気持ちで問題解決する強い気持ちがないとまた事故は繰り返されるだろう。
2438.2014年1月15日(水) エッ? 還暦を超えたらダメか。
今日の朝日夕刊「素粒子」にこんなことが書いてある。①計148歳の老いの一徹、合体怪人となって東京湾に現る。首都から原子力文明をぶっ壊す魔神か、ヒーローか。②バランスよく議論を、と急にいい子になった人あり。1強の地盤に揺れを感じ。できるか、得意の完全ブロック。③候補を見わたせば還暦すぎた翁ばかり。さて五輪の組織委は財界の老翁連にそでにされ。ここにも現れた元首相。とまあこんな具合である。①は細川護熙元首相と小泉純一郎元首相を指し、②は舛添要一元厚労相を、③は森喜朗元首相を皮肉っていることは明々白々である。還暦過ぎを皮肉っているようだが、還暦を過ぎたってまだまだ現役で働ける人はいくらでもいる。これでは逆説的に言えば、まるで若ければ誰でも良いように受け取れる。それよりなぜもっと若い人の出番がないのかを真剣に考えてみた方が良いと思う。最も効果的な荒療治は、すべての仕事場に定年制度を採り入れることだろう。
素粒子の言い分は確かに図星ではあるが、少し辛子が効き過ぎるのではないかと思っている。実際老人ばかりになったのは、これが政治がらみだからである。政治が絡む世界は年齢を重ねないと発言権がないし、当然責任あるポジションに就けない。ほかにも一般的に地方自治体で国の政策を論争するのはおかしいかの如き意見があるが、最終決定は国にあるにしても意見を戦わせるのは、地方でもどんどん論争すべきではないか。また、還暦未満の人でオリンピック組織委員会会長のような難しい職をこなせる人はいるだろうか。
あれやこれや考えると今日の素粒子のでき栄えはあまりぱっとしないと辛口採点を差し上げたい。
折りも折り午後森喜朗事務所の長谷川秘書から電話があったので、2020年東京オリンピック組織委員会会長に決定との新聞報道について尋ねたら、今日から急に忙しくなったと言っておられ、昨日森氏から電話をいただいたが、今日ならその時間もなかったようなことを聞かされ、忙しくなられて大変なんだなぁと感じた。森氏が健康について気をつけられるよう伝えた。長谷川氏からは拙著に掲載の写真を送ったとの連絡だった。