充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
ブログ一覧
3010.2015年8月10日(月) サンフランシスコに想いを残し離れる。
いよいよサンフランシスコを去る日が来た。いろいろ考えた末昨日乗ったBARTでサンフランシスコ国際空港駅へ向かうことにした。到着した時は、営業用バン車で$17だったが、BARTは$8.75で値段も手ごろでかなり大きなバッグを持った多くの旅行者の姿が見られた。因みにタクシーだと$33~50が相場だそうである。今日は昨日とは異なりどのラインも運行していた。
この空港は1988年に旧空港を改築して開業された。従ってどうも使い勝手が依然度々利用した時とは違う。空港駅に辿りついたが、ここから全日空が利用するターミナル1へは胡座式モノレールのような山手線に乗って目的のチェックイン・カウンターへ行くことになる。しばらくサンフランシスコを訪ねなかったので、その点でちょっと戸惑った。
今回の旅行は、孫の精神的な成長を期待するとともに、積極性を身につけてもらいたいの一念で私の一方的なやり方でサンフランシスコ市内を孫とともに歩き回ることだった。その目論見は計画としてはまずまずだったが、今後孫の成長にどんな形で成果がどう表れるだろうか。
機内は往路と同じように旅行シーズン真盛りとあって満席状態のままフライトは揺れもなく成田へ向かった。太平洋上で日付変更線を越え、時計は16時間の時差をクリアして日時を1日進める。
3009.2015年8月9日(日) サンフランシスコ最後の1日を欲張って
サンフランシスコで孫に見せてやりたい場所は今日で最後なので、自由な中でも精力的に行動するつもりだったが、出鼻を挫かれてしまった。
その最初のしくじりは、サンフランシスコ湾海底を通る地下鉄で、通勤・通学の足となっているBART(BAY AREA RAPID TRANSIT)に乗って、オークランド・サイドにあるカリフォルニア大学バークレイ校(U.C.Berkeley)を見学するつもりだったが、無駄な時間を費やしてしまったことである。パウエル駅プラットホームでリッチモンド行列車を待てど暮らせどホームに到着せず、30分以上経っても来なかったので、駅員に尋ねたところ、日曜日にはリッチモンド行直通列車は運行しないので、途中駅で他の路線に乗り替えてダウンタウン・バークレイ駅へ行って欲しいという説明があった。
ともかくその案内に従い目的駅へ着いてから、かつて訪れたことがある懐かしいU.C.Berkeleyキャンパスを見学することができた。第1次大戦が勃発した1914年に建設されたという時計塔・セーザータワーへ昇ったが、その昔昇った時にはフリーだったエレベーターに3$支払った(シニア・シチズンは2$、孫は成人として3$)のには時代を感じた。夏休み中で、しかも日曜日とあって幸か不幸かキャンパス内は閑散として落ち着いた雰囲気で見学者のほとんどが中国人団体だった。名門大学の素敵なキャンパスを孫に見せてやることができて自己満足ではあるが、良かったと思っている。残念ながら学生生協と学食も休みで、昔ここの生協で購入した住所録の代わりを買うことができなかった。しばらく現在使用中のおんぼろ住所録を使うより仕方ないと思っている。
キャンパスを出てバークレイの街を見学傍々ペルシャ料理店であまりうまくないランチを取って、BARTで再び半島の北・エンバカデーロへ向かい、そこから歩いてPIER39の水族館を見学した。これは海底トンネルを歩きながら海中の魚類を見学できるという珍しい水族館で今話題になっている。近くの海には野生アザラシが何匹も見られて観光客の人気を呼んでいた。そして、最後の夕食をフィッシャーマンズ・ワーフの中心「ライトハウス」という魚介料理店で、たらふく食べたいと思っていた蟹の茹で上げと、エビのサンドウィッチ、クラム・チャウダーを残すほど食べて最後の晩餐とした。孫も食欲旺盛で美味しかったと言っていたので、まあ上々の打ち上げだったのではないかと思っている。
帰りはフィッシャーマンズ・ワーフから一昨日と同じように再びケーブルカーに乗って帰って来たが、日曜日というせいもあって一昨日より大分長く待たされ、何と1時間40分も並んで待たされてしまった。そのうえ寒く待っている人たちはほとんどスペアの重ね着をして寒さを凌いでいた。孫ともども震えっぱなしで、お盆も近い猛暑日の続く日本の気候を考えると想像もできない寒さを最後になってこの地の土産としてもらってしまった。
いよいよ明日は日本へ帰ることになるが、孫が今回の旅行でどれほど成長してくれたかは定かではない。毎日少しずつ気がついたら注意したり、実行させたりしたので、それなりに感じてはくれただろうが、性格的な面をより積極的にと望んだのは、やはり中々難しかったかも知れない。でも、聞いてみると案外旅を楽しんだようだし、ヨセミテの素晴らしさを知ったし、ケーブルカーにも乗って、サンフランシスコで多くの有意義な体験をしたことは間違いない。これをどう今後生かしてくれるかは孫次第ということではないだろうか。爺ちゃんもやや張り切り過ぎて疲れてしまった。
3008.2015年8月8日(土) 世界遺産・ヨセミテ国立公園巡りをエンジョイ
楽しみにしていた世界遺産・ヨセミテ国立公園への1日観光に参加した。隣のホテル・ニッコーの滞在客11人とヒルトン滞在の我々7人を鹿児島出身のドライバー・ガイド柳鶴利則さんが案内してくれた。柳鶴さんは昨日のガイド森脇さんと似たような雰囲気の人だが、平均時速125㎞で運転するというから相当なスピード狂だ。私と孫はマイクロバスのような小さいバスの最前席に座ったが、怖いと思うくらいスピードは出すし、路線変更はするし、で慣れるまではハラハラだった。
市内からオークランドへ渡る時通過したサンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジは旧ブリッジが取り壊され、旧ブリッジに沿って新ブリッジが建造されたことは知らなかった。古い橋は今解体工事中だった。柳鶴さんがそっと教えてくれたところによると、新ブリッジは中国業者によって設計、建造されたが、安い事業費と粗い工事のため、早くも随所に欠陥が表れている一部で噂になっているという。
スピード狂の柳鶴さんだが観光に関する知識は広く深く、その情報通ぶりには感心した。おかげで世界遺産・ヨセミテについて単なる観光知識を与えてくれただけでなく、立体的にヨセミテを教えてくれた。これまでヨセミテには1976年以来数回訪れているが、訪れたのはいずれも秋で最繁忙期の夏の様子は人伝てに聞くしかなかった。最も驚いたのは交通渋滞というわけでもなかったが、レジャー客の車が週末というせいもあり目立って多かったことと、途中の山道で崖崩れのため交通整理をしていたことだった。
期待していたハーフ・ドーム、エル・キャピタン、ヨセミテ滝、グレーシャー・ポイントなどを忙しなく見て回った。ハーフ・ドームを目の前に、孫に彼の父親の家庭教師を務めてくれた谷口龍二くんがロック・クライミング中に誤って落っこち宙ぶらりんで吊り下がった状態の時にアメリカ人クライマーに救助されたエピソードを話してやった。根っからの登山好きだった好漢谷口くんは、大学アルペンクラブの後輩で、その後富士山で遭難者の人命救助に当たって表彰されるなど登山で幅広く活躍し、尖鋭的なロック・クライミングにとりつかれるようになったが、今から30年近く前ヒマラヤ山系パキスタン領内のシプトン・スパイアー(標高5850m)で哀れ転落死してしまった。葬儀にはわが家族4人は揃って参列した。この旅行の前にも高齢のご両親から暑中御見舞いのお便りをいただいたばかりである。
ついハーフ・ドームを目の当たりにしてセンチメンタルな気持ちになってしまった。好青年だっただけに、彼のあまりにも早い死が惜しまれてならない。
ヨセミテはその広大な面積とともに、今更ながらその人気に驚く。アメリカでもグランド・キャニオン、イェローストーンと並ぶ世界自然遺産として、また最も行ってみたい観光地として自然遺産ではトップスリーにランクアップされるという。孫も口数は少ないが、大分感銘を受けたようだった。
朝7時半にホテルを出て、ホテルへ帰って来たのは夜の7時半になり、文字通り1日がかりの忙しいツアーになったが、心から楽しませてもらい、併せて考えさせてもらったツアーだった。サンフランシスコ市内を隈なく見て回るのも良いが、郊外へ足を伸ばして世界的観光地に足を踏み入れ、のんびり自然の中に心身ともに浸すことができたことは、きっと孫にとってもいつまでも忘れられないメモリーとして心に残ることだろう。
3007.2015年8月7日(金) サンフランシスコ市内観光を楽しむ。
事前に手配したサンフランシスコ半日市内観光は、森脇信さんと仰るドライバーガイドがホテルへ8人乗りバンで迎えに来てくれた。京都府福知山市出身のベテラン・ガイドさんで陽に焼けて白髪頭だったので、私と同年輩ぐらいだろうと思っていたところ70年安保世代と仰ったので、10歳ぐらい私よりお若い。
同乗のお客さんは、東京葛飾の若いご夫婦と栃木県から参加された30代と思しき女性3人を合せて計7人だった。バンは大型バスと異なり、やや運転制限が緩やかで割合狭い場所でも自由に観光できる。市内全景とゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)を眺望するために、かつてバスで観光したツィン・ピークスを最初に訪れたが、聞けば今ではここには大型バスは入れなくなったと言われた。
金門橋を通ってオークランド側に渡らないということだったので、橋の手前の駐車場から橋の最初のゲートまで孫と歩いて行ってみた。時間があればそのままオークランド側に渡ってみたかった。幸い橋上から市内の全景と監獄島・アルカトラス島の眺望を楽しむことができた。森脇さんが70年安保世代だったので、やはり日米安保条約に関心があるようで、サンフランシスコ海洋国立歴史公園内にある記念的館へ案内してくれた。そこは1951年安保条約締結の際、吉田茂首相がアメリカのアチソン国務長官やダレス特使らと会談し、条約に調印した場所だった。私はここを初めて訪れたことになるが、素晴らしいロケーションの洒落た造りの館内で条約調印が成されたことが、その後60年安保、70年安保の際日本国内に大きな反対運動が起きたこと、更に現在安保関連法案が成立しようとしていることと併せ考えると感慨無量の思いがする。
フィッシャーマンズ・ワーフで森脇さんらと別れ、孫とぶらぶらしながらランチを取り、昨日から念願だったケーブル・カーに乗ってホテルへ帰って来た。話には聞いていたが、ベイ・エリアの始発駅で並んで待つこと1時間、そして乗って30分の時間を要した。大分以前に乗車したことはあったが、その時の感覚はほとんど忘れていた。やはり急坂の上り下りには時代がかったケーブルカーの馬力を流石に凄いと感嘆するしかなかった。
夕食はホテル近くで賑わっている和食レストラン「堂島庵」で天麩羅そばと寿司を食べ、明日ヨセミテ公園行き出発時間が早いので、おにぎりをテークアウトして来た。
夜は孫に航空便ハガキの書き方を伝授する。
3006-2. 8月6日(木)②(サンフランシスコにて)ケーブルカーの接触事故で乗車できず
昨夜の機内はやや肌寒かった。軽いシャツに夏ズボンだったが、用意していたスェーターを重ね着して久しぶりにサンフランシスコの地にやって来た。空港は私の記憶からすっかり変わっていた。孫にはこれがアメリカの大地だということを言い聞かせた。私にとって初めてアメリカ大陸の土を踏んだのも、このサンフランシスコである。ヒルトンホテル・ユニオン・スクエアに行くにはいくつかの方法を考えていたが、取り敢えずインフォメーションで聞いてみたら‘SHARED-RIDE VANS’という相乗りバスのようなシステムがあることを知り、孫にとっても空港から市内までの道のりを知るためにも良いのではないかと考え、ひとり17$で客は結局我々2人だけだったが、これに決めて良かったと思う。広い空港ビル群を順次第1、第2、第3ターミナルと回ったうえで、市内へ向けてスタートした。ドライバーと和やかな会話を交わしながら順調にホテルへ辿りついた。
早速ジーンズに着替えて孫を連れ出し、ケーブルカーで観光客に人気のあるフィッシャーマンズ・ワーフへ出かけたところが、最寄りの停車場近くで何の偶然だろうか、ケーブルカーと車が接触するという珍しい事故を起こして動かなくなって、ケーブルカーが何台も立ち往生している事態に遭遇した。これでは、埒があかないと急遽予定を変更してケーブルカーの走る坂道に沿って北上し、ケーブルカー博物館を訪れ、その歴史的遺産を見学することにした。その後時間的にはやや早かったが、中華街で夕食を摂ることにした。坂道を上ったり下ったり歩き回り、ケーブルカー乗車はともかく明日に回して、これも名代のサンフランシスコのチャイナタウンで、偶々入った面白いおやじの店で中華食をたらふく味わった。注文をザラ紙に鉛筆で書いて、単純な足し算をしてその場で会計をしろという風変わりなオヤジで庶民的だ。かつて団体で入ったやや高級感のある中華料理店とはえらい違いの気さくな店で、うまい中華を存分に口に入れることができた。予定は変わってしまったが、元々きちっと決まっていたわけでもないので、明日はすでに予約してある半日バス市内観光を終えた後フィッシャーマンズ・ワーフ周辺をぶらつくことによって孫にもアメリカの雰囲気とか感覚を掴んで欲しいと思っている。
昨日から煩いジジイが傍で細かい注意をしたり、ホテル部屋内では設備の使い方やアメリカ人との交渉についてあれこれアドバイスをするので、孫はさぞ辟易しているだろうが、これも「教育的指導」のつもりなので多少は我慢して欲しいところ。