ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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5938.2023年8月16日(水) フランクリン北極探検隊失踪の謎

 去る11日は祭日「山の日」だった。今年の「山の日」は天候が山登りには適さなかったようだが、それでも多くの人々が各地で登山を楽しんだようだ。3日間の連休中に富士山へ登った人は約1万人と推定され、年々外国人登山者の数も増えているという。最近話題になるのは、富士山で「弾丸登山」と呼ばれる荒っぽい登山をする人たちで、他の登山者への迷惑にはお構いなく、ただ富士山へ登ろうとの一心で登山道で仮眠したり、休息を取る人たちである。彼らの間では山小屋に宿泊せず、一気に頂上を目指す登山者が多いという。また、他にもテレビを観てみると随分簡単な身なりで登山している登山者の姿も目に付く。彼らの服装はとても登山者とは思えず、まるで夕涼みの散歩スタイルである。こういう安易な登山スタイルは低体温症になる危険が多く、地元のガイド組合や観光協会でも一歩間違えると遭難の危険があると警告している。
 そういうやや安易な登山者に比べて、「NATIONAL GEOGRAPHIC」8月号特集記事に取り上げられたロマン溢れる「北極探検隊 失踪の謎を追う」は、真面目にテーマに取り組み写真と地図も併せて目新しい冒険ストーリーである。そもそもそのきっかけは、19世紀半ばにイギリス人ジョン・フランクリン隊長率いる探検隊が北極海で消息を絶った北西航路を、昨年「NATIONAL GEOGRAPHIC」チームが、その足跡をたどる航海に出たことにある。

 8月号は、その経緯を記録したものである。フランクリン隊長は、まだ誰も成し遂げていない北米大陸の北の氷に閉ざされた海域を抜けて太平洋に出る北西航路を切り開こうとした。これはアメリカから極東への新しい交易路として期待もされた。ところが、彼が率いた2隻の船、エレバス号とテラー号、そして乗組員128人が忽然と姿を消し、その後長い間記録等全体の詳細は分かっていない。「フランクリンの謎」と呼ばれているほどである。普通の海洋を航海するのとは異なり、北極海では氷山や氷柱が障碍となり、危険ですらある。船が氷山に囲まれその氷山が大きくなったら船はたちまち押しつぶされ破壊させられてしまう。そういう危険な北極海では夏の短い期間だけしか航行出来ない。2隻の船は1845年にイギリスを出港したが、2年目はほとんど氷に閉ざされていたという。4年目になって遂に船を放棄した。2隻の内エレバス号の残骸が2014年に放棄した島の反対側の海底で発見された。

 「NATIONAL GEOGRAPHIC」チームは、北西航路を辿って110日後にゴールであるアラスカ州ノームに着いた。彼らがどの程度当初の目的を果たせたのかは定かではないが、フランクリン隊長らと現地のイヌイットらとの交流などは想像することが出来る。とにかくスケールの大きい冒険旅行である。

 一見「弾丸登山」と変わらないと言えないこともないが、計画性や装備品、準備、アカデミック性などを考えると自ずから無謀な「弾丸登山」とはまったく異なることは歴然である。

 中々面白い特集読み物で、ロマンを感じた。

2023年8月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5937.2023年8月15日(火) 78回目の終戦記念日を迎える。

 今日78回目の終戦記念日を迎えた。例年通り東京九段の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が、天皇、皇后両陛下ご臨席の下に開かれた。生憎台風7号の影響もあり、10府県の遺族が参列を見合わせた。年々参列者の高齢化が進み、出席した遺族の内75%以上が70歳以上だった。戦争を知る世代が年々少なくなっていく。どうやって戦争の恐ろしさと惨めさを後世へ伝えていくことが出来るのか、大きな関心事であり、これからも引き継がれるべき課題である。

 私自身振り返って、1945年3月に父の転勤と疎開を兼ねて千葉県勝山町(現鋸南町)へ引っ越し、4月に大量の牛乳缶を馬車で運んでいた父の会社の人に勝山国民学校へ連れて行ってもらい初等科へ入学した。晴れて国民学校1年生になった。両親ともに息子の入学式になぞ出席している余裕がなかった。まだ友だちは誰もいない。父は千葉市内へ毎日片道2時間半もかけて列車で通っていたが、最初のころは母も近所には親しい人は誰もおらず、それでも勤労奉仕には強制的に狩り出されていた。近くの館山市内に旧日本軍の施設があるせいで、わが田舎町まで米軍機の空襲が激しくなり、毎晩のように敵機を探知しようと鋸山頂上の軍の探照灯が闇夜を照らしていたのを2階の窓からじっと見ていたのをよく覚えている。昼夜を問わず空襲警報のサイレンが聞こえると同時に、母や兄弟と近くの岩山の横穴式防空壕へ逃げ込んだ。一方学校ではこんな際どいこともあった。お母さん先生に連れられて校外のお花畑へ同級生と揃って出かける途中で、米戦闘機編隊が低空飛行して接近し銃撃直前になって急遽機首を上空へ向け飛び去って行ったが、先頭の機長の目に我々のような幼い子どもたちが逃げ惑う姿が映り、哀れと思って見逃してくれたのではないかと後になって考えたことがある。

 その後社会人になって旅行業に関わることになってからも戦争に関する業務に携わることが多かった。1970年当時ビルマ(現ミヤンマー)は国の特殊な事情によりほとんど日本から戦没者慰霊団を受け入れていなかったが、ビルマ戦友会から慰霊団計画の相談を受け、直に交渉するより方法はないと思い、単身ビルマへ飛んだ。慣れないながらも現地でビルマ航空とぶっつけ本番で交渉して陸軍航空隊として初めて「加藤隼戦闘隊ビルマ慰霊団」を計画、実行した。思いがけずビルマ政府から晩餐会に招待され、それが新聞やラジオで広く報道され大いなる反響があった。それが転機となり、以後毎年ビルマをはじめとする東南アジアへ慰霊団を計画した。更にそれがきっかけとなり、当時の厚生省からも太平洋戦争戦没者遺骨収集事業を仰せつかり、十数年に亘り毎年中部太平洋諸島への遺骨収集団で、1か月間も「玉砕の島」サイパン島を中心に滞在することになった。

 偶々一昨日の朝日新聞朝刊に遺骨収集に関する記事が載っていた。それによると「海外戦没者240万人、収集された遺骨128万柱、過去に身元判明1232人」だそうである。加えて「進まぬ国の遺骨収集 遺族『それだけ高齢化進む』」とある。これに付け加えるなら、日本人の犠牲者は310万人、東京大空襲死者8万3千人、広島・長崎原爆犠牲者死没者名簿に51万人、等々戦争がもたらした惨禍は限りがない。

 私たちが毎年お世話して順調に続けられていた遺骨収集が、今では当時より遺骨収集団の規模は小さくなり、収骨数は遥かに減ったようだ。これでは、戦争の整理はいつまで経っても片が付かない。何とか以前のように遺骨収集に厚生労働省も本腰を入れて欲しいものである。

 「戦争は怖い!」「戦争は2度と冒してはならない!」とは誰しも思うことである。日本国憲法でも戦争の放棄は第9条に明確に記載されている。だが、実際には現状は、日本政府が憲法違反を冒しながら、戦争への道をひた走りなのだ。

 昨年末には「安保3文書」を閣議決定し、自衛隊に敵基地攻撃能力をもたせるように今後5年間に巨額の防衛費43兆円を決定した。再び戦火に巻き込まれるのは耐えられないので、これは好戦的な国会議員には嫌みに聞こえるかも知れないが、この先戦争ムードが高まり、そのうえ体調が最悪になった時には、今生からお別れしたいと思っている。

2023年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5936.2023年8月14日(月) 気骨ある外交官だった佐藤尚武元参議院議長

 このところ終戦記念日が近づいたせいか、太平洋戦争関連のドキュメント・ストーリーの放映が目につく。去る9日、NHK「昭和の選択」が「平和を手放した日~幣原喜重郎国際協調外交の誤算」と題して歴史家らのトークと映像を映していた。幣原と言えば、戦前から外交官、そして外務大臣として国内外の難局に取り組んでいた。旧日本軍の満州、中国進駐につき、欧米から批判を受けながら懐柔策を政府に提案したが、国内では彼の意向は軍部に抑えられ提案は伝えられることなく外相を辞めざるを得なかった。戦後は総理大臣として、また衆議院議長として活躍された。

 実は、幣原喜重郎衆議院議長については、佐藤尚武参議院議長の名前と一緒に小学5年生の時、初めてその名を知った。偶々昨日の朝日朝刊「日曜に想う」で曽我豪・編集委員が、「78年前の夏の異議申し立て」と題した論説の中て、その佐藤参議院議長の筋を通す誠実さ、及び気骨ある性格と戦前、戦後の良識ある言動を高く評価している。佐藤も幣原同様に外交官出身で、終戦の年にソ連駐在大使を務めていた時、ソ連が終戦直前、特にドイツの降伏後には原爆投下で疲弊していた日本へ侵略し、日本領の一部を手にいれるべく動いていたことを察知していた。その最中の1945年8月8日、佐藤はソ連外相から対日宣戦布告を受けたという。

 曽我氏が特に佐藤を評価しているのは、毅然として自らの考えを貫き、職業、立場などによこしまな気持ちを抱かなかったことである。例えば、終戦の1か月前東郷茂徳外相からソ連に和平の仲介を頼めとの指示を受けたことに対して、異議を申し立てた。和平の条件として「皇室の維持」があったからである。佐藤は、「すでに抗戦力を失いたる将兵およびわが国民が全部戦死を遂げたりとも、ために国家は救わるべくもあらず。七千万の民草枯れて上ご一人ご安泰なるをうべきや」と皇室維持の一点だけを主張する上司東郷外相に異議を唱える長文の電報を打った。政府の所信に反するのを知りつつ、敢えて反論する罪の深さを自認していながら、言わずにはいられなかったのだろう。佐藤の正義感がそれを許さなかった。

 同時期にそれぞれ衆参議長を務めた幣原、佐藤に比べると、今日の節操のない議員、私利私欲で国会に議席を置いているだけの政治家は、政治家として、また人間的にあまりにもレベルが低い。その点で今日の国会議員は気楽である。競馬の馬主として必要経費として風力発電会社社長から6千万円を収賄したり、女性議員研修旅行と称しつつパリで観光気分に浸ったり、住民の反対を無視して賭博場建設に熱中したり、こういう議員はモラル以前に議員失格、人間失格である。

 小学生の時、初めて知った衆参両院議長の名前だったが、その後もその名も覚えている2人の素晴らしい高潔な性格の政治家を改めて知り、爽快な気分である。因みに佐藤尚武の墓地は、都立谷中霊園内にあり、この夏の暑さの中で大樹の陰はないという。「洋服を着た武士」佐藤尚武は昭和46年12月18日この世を去った。享年89歳だった。

2023年8月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5935.2023年8月13日(日) 昨日日航機事故から38年、今日からお盆入り

 昨日日本航空機が群馬県の御巣鷹山に墜落して520名が死亡する大事故が発生してから38年が経った。単独機の航空事故としては過去最多の犠牲者を生んだ。事件後、日本航空は事故現場周辺における遺族らに対する対応や、事故機の残骸処理のために時間を割けるゆとりのある社員や、OB社員に声をかけて人集めに大わらわだったという。当時日航機機長を退職されたばかりの知り合いも日航から助っ人を要請され、現場でご遺族への対応に当たられていたが、随分遺族らから恨みつらみや厳しい言葉を浴びせられ、とても耐えがたい経験だったと話されていた。ビルマ戦線で第5飛行師団・飛行第50戦隊のパイロットとしてビルマ、中国、東南アジア方面で戦い生き抜いて苦労されたその旧軍人が、生前つくづく語っていたことが、毎年この時期になると思い出される。こんなことも仰っておられた。いかに騙されたり、言葉で傷つけられてもじっと我慢していれば、最後には許してもらうことは出来るが、人を殺してしまったら取り返しようもなく逃れようがないという話だった。この方は務めていた日本航空から人手が足りない事故現場で元の勤務先のために手助けすることを求められ、現役時代に世話になったからと厳しく辛い業務であることを承知のうえでお手伝いされた。そういう地道で隠れた一助などによって今日の日航の繁栄は保たれている。幸いにしてその後日本国内では大きな航空事故は起きていない。

 今日から16日までの4日間恒例のお盆である。お盆休みと称して多くの人々が国内外へ旅を楽しんでいるようだ。完全にコロナが明けたわけではないが、コロナ明けと称して交通機関の混雑が、一気にヒートアップしている。ところが、一昨日には小笠原諸島周辺を襲っていた台風7号はそのまま北上し関東、東海地方に襲来すると予報されていたが、台風の速度が遅くなり、それに従い進む方向が徐々に西方へ傾き、今日の予報では15、16日ごろに近畿地方を襲う公算が強くなった。そのため各交通機関はスケジュールを組み替えて対応しているようだ。現時点では、東海道新幹線と山陽新幹線が15日の全線運転中止や区間運転中止を検討している。今年のお盆はその他にも花火大会や各種のフェスティバルの開催に難しい判断を求められて。東京でも午後になって一時的に激しい降雨があり、2階から外を見ても霞んで見えるくらいだった。幸いしばらく散水していなかった庭の樹木もたっぷり水分をいただいたようで、ホッとしている。

 その観光が回復しつつある中で日本にとっての朗報は、去る10日中国が日本への団体旅行を約3年半ぶりに解禁すると発表し、日本の旅行会社も受け入れ準備に入ったことである。コロナ前の2019年に中国人の訪日客は約960万人で、訪日外国人全体のほぼ3割を占めていた。それがほとんどゼロの状態だったので、中国人団体旅行が復活するなら少しずつ元のインバウンド客は戻ってくるだろうと期待される。

2023年8月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5934.2023年8月12日(土) 食欲不振が原因か? 急激な体重減少

 4週間に1度近くの山内糖尿病クリニックに通院しているが、今日も相談に乗っていただいた。幸い基準値であるHbA1cは5.9で、数日前慶応病院で計測した5.7ともども安定した数値である。ほぼ回復といってもいい最近の状態である。実は、糖尿病以外に最近体重が急に減り出したのが気になっている。その原因として考えられるのは、当然この猛暑の故に熱中症のせいもあり、やや食欲不振になり食事の回数は1日3度こそ守っているが、食べる量が大分落ちていることだと思っている。特に夕食は以前に比べて大分減食状態となっている。ご飯をお茶碗に半分やっとの状態でこれを何とかしなくては回復の見込みはないと思っている。山内クリニックは主に糖尿病を専門にしているが、内科全般を診てくれるので、今日は妻ともども相談に伺った。医師は拙作の体重変化表を一目見て、少し体重減少の速度が速いのは、食欲が進まないのが一因であるが、胃に問題はないかと胃を気にされていた。肝臓、大腸、十二指腸の内視鏡検査は人間ドックの際済ませたので、今思えばオプションで胃も内視鏡検査を受けるべきだったと思っている。医師からは食事療法から日中の生活の仕方についてもアドバイスをいただいた。

 体重の減少は、具体的には以下の通りである。20年前会社を退職した当時は、体重は70㎏近くあった。そのころはやや太り過ぎだと言われたりもした。近年になり自分自身の健康に留意するようになってから、毎日血圧、脈拍、体温、体重を測るようになり、その結果を記帳、グラフ化し、各医院で受診する際には、いつもそれらの数値をグラフ化した一覧表を作成して医師に提示し、医師の先生方からも重宝がられている。

 過去の数値を拾ってみても、2019年12月には70.3㎏もあった体重が、この3年余りの間に減り始めが、それでも20年2月までは毎日67㎏以上を保持していた。それが2年後の22年1月には64~65.1㎏となり、今年1月には60~61㎏台となり、8月に入って59㎏台となり、昨日の59.0㎏から今朝は58.4㎏にまで落ちてしまった。医師も4週間ぶりに会った私の顔を見るなり、随分お痩せになりましたねと仰ったくらいである。

 今後各専門の医師ともご相談するが、当面どうやって食欲を落とさないで体重減少を食い止めるかが課題である。年齢を重ねるごとに高齢者として抱える問題が多くなる。医師のアドバイスには従いながら、普段の生活をどう健康的なものにし続けることが出来るかを問われているように感じている。朝食は以前と同じ分量をいただいているので、夕食のボリュームを以前と同じようにどうやって摂ることが出来るかである。しかし、余命が長くはないこの年齢になって、人生における基本的で大切な課題に直面しようとは世の中は甘いものではないのだということを痛感している。

 さて、ニュースでハワイの山火事を知りびっくりしている。マウイ島で8日に発生した山火事は、ハリケーンに伴う強風に煽られ市街地まで被害が及んでいる。死者は今日現在80人にまでなった。通常山火事と言えば、都市部から離れた山中で起き、そのまま消火活動か、自然消火で都市部にまで影響することは稀である。今回は1度訪れたことがあるマウイ島の首都ラハイナのかなりの地域が火災化したので、観光客も宿泊ホテルがなくなり、避難所で過ごす有様だったという。これも地球温暖化、否グテーレス国連事務局長の言葉を借りれば、地球沸騰化の時代が来たと言えよう。ウクライナでいつまでも戦争などしていないで、気候温暖化に対する世界の声を結集して早く手を打たないと地球沸騰どころか、地球破壊となってしまう。

2023年8月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com