充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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673.2009年3月17日(火) 故吉岡攻さんの個展
麹町の海事センターで開かれたJAPAN NOW観光情報協会理事会に出席した。5月の総会に報告する定例の今年度決算書、及び来年度予算案、今年度活動方針について説明がなされ、全出席理事から了承された。不況の時勢にそぐわないくらい大きな黒字で、決算上はまったく問題ない。ある団体から相当額の寄付金をいただくことになり、それが決算上有利に寄与している。
5月に定例総会が開かれるが、まず問題になることはないだろう。
その後銀座へ移動。昨年12月急逝されたゼミの吉岡攻先輩が、生前趣味として描いた絵画をまとめて奥様が個展を開かれた。ゼミの仲間9人が集まり会場で拝見したが、とても素人が描いたものとは思えないほど雄大で魅力的な絵が展示されていた。ほとんどが海外で描いた海と山の絵だった。ビルマ、チベット、中国などの懐かしい絵が沢山あったが、商社員として忙しい仕事の合間によくもこれだけ素晴らしい絵を描くことが出来たのか不思議なくらいである。スケッチも良いが、やはり油絵に気に入ったものが多かった。それにしても昨年10月のゼミ例会で元気な姿を見せてくれ、海外旅行の話もした。奥様の話だと11月に食欲がないので、調べてもらったところ腎臓に末期癌が見つかった。発見されて僅か2ヶ月で亡くなられたという。あっという間の他界である。虚しいとしか言いようがない。71年の生涯だった。心よりご冥福をお祈りしたい。
その後ビアホール「ライオン」で恒例の飲み会。利光さんが71歳の誕生日を迎えたので、事前に断ったうえでケーキを持ち込みお祝いをした。あまり派手なお祝いではないが、みんなの気持が篭っているので充分ではないかと思う。
ゼミの親しい仲間は大体70歳前後になった。当然だが、やはり健康が一番大切だとつくづく思う。それに、生きがいをどれだけ感じて日々の生活を送っていけるかである。
それにしても気のおけない仲間との会話は楽しい。
672.2009年3月16日(月) 出版プロジェクト・チームのトレーニング
今年「知的生産の技術研究会」が予定している出版書の編集スタッフのうち6人が、インタビューの方法等についてレクチャーを受けるために「知研」久恒啓一理事長宅を訪問した。熱心な若手会員が3人も会社から半休をとって来てくれた。理事長宅のマンションは、居住スペースのほかに、屋外ガーデンスペースとそこに離れがあり、全体としてはかなり広い。所有スペースは110㎡もあるという。余計なお世話かも知れないが、ご夫婦お2人で住むには充分なスペースではないだろうか。知の源泉である書斎を主に見せていただいた。図解関係の書類のほかにも、多くの資料をファイリングして分りやすく保存しておられる。いろいろな分野で資料を蒐集したり、作成したりすると管理と保存を余程しっかりしないと不明になったり、散逸したりしてしまう。整理の仕方から几帳面な性格であることが察せられる。現在お勤めの多摩大学も4月から寺島実郎新学長の下で新体制に入るので、この機会に新しいウェブサイトをアップすることを考えておられるようで、作成等のために多くの資料を抱えておられる。
プロジェクトの打ち合わせは、最初に書斎で保存資料の整理方と理事長個人の人生プランについてじっくり話していただいた。その後リビングルームで理事長を囲んで、取材のポイント、話の聞き出し方、取材者の組み合わせ、等について話を伺わせてもらった。プロジェクトはスタートしたところだが、これからが胸突き八丁である。近々スケジュールの進め方について編集スタッフ同士で更に打ち合わせをして、プランを煮詰めていく必要があると思う。
今日理事長から伺った話の中で、ご自身が具体的な人生プランをかなり早くから決めて、ほぼそのスケジュール通りに歩んできたという話に感銘を受けた。30歳で将来の人生にかくも明確な目標設定が出来るものなのか。自分自身のケースを振り返ってみると、29歳で辞表を提出してチェコへ留学する準備が整ったところに、世界を震撼させた「プラハの春」事件が勃発して、前途が見えなくなってしまった。暫し精神的に彷徨って自分の将来を見定めるなんてとても考えられなかった。
その点で久恒理事長の「30歳人生プラン設定」と、それを実行できる能力は、考えようによっては超人的で、滅多に真似出来ることではない。しかし、現実にそれをやってのけるというのは意思の強さと実行力、そのうえに幸運も見方した面もあるだろう。
それはそれとして、出版プロジェクトを遅滞なく、確実に前進させていかなければならない。
671.2009年3月15日(日) 知研総会で永年会員として感謝状を頂く
NPO「知的生産の技術研究会」総会がルーテル市ヶ谷センターで開催された。ここで開催された例会に出席するのは、初めてである。例年通り決算書、予算案、定款一部改正、来年度活動方針について久恒啓一理事長より報告がなされ、それぞれ承認された。遠方の仙台、名古屋、岡山からも会員が出席された。
久恒理事長は活動方針報告の中で、今年度は知研として久しぶりに出版プロジェクトを発足させ、年内に出版するということを話された。知研活性化へ向けた第一歩である。実際私自身編集スタッフのひとりとして、すでに部分的に走り出しているプロジェクトである。かつて知研から何冊かの書籍を発行したが、近年出版活動から遠ざかっている。会員の平均年齢が上がり会員数は減少傾向にある。この際知研の存在感を高め、より活性化のためにももっと知研の活動を外へ向かってPRすべきであると考えている。知研のような知的集団が停滞したままでは、知性の向上、社会の進歩も期待出来ない。そのくらいの意気込みを持って、今こそ知研が知的活動面で起爆剤となって活動することを誓いたい。
もうひとつの報告は、機関紙「知研フォーラム」を人材面、資金面、時代の要請等でウェブ中心の情報提供に切り替えるという方針である。現状は機関紙編集から発行、郵送まで一手に引き受けておられる八木哲郎会長に負担をかけ過ぎていることである。八木会長の負担軽減を考えるとこれも止むを得ない。しかし、ウェブだけの情報提供では、会員の投資効果感覚、手元に知研資料を持てない不満、知研としての記録、意見・提言・エッセイ等の発表の場の喪失、等々を考えると、平行して冊子の発行も検討する必要があるのではないかと問題提起をした。他の会員からも発行間隔が開いても冊子として知研の機関紙を発行することに意義があるとの提案がなされ、結局冊子の発行については改めて検討することになった。
その他の式次第としては新理事が選出された。東京支部・小林尚衛氏と岡山支部・定金章氏を新たに理事に選出した。私は20年以上長期会員として貢献したとの理由で、久恒理事長から感謝状をいただいた。感謝状なるものをいただいたのは、わが70年の人生で初めてである。実際に会員になったのは、昭和51年だったと記憶しているので、33年生であるが、残念ながら証拠がない。しかし、30年前の証拠品として、1979年10月開催セミナーの私宛案内ハガキを持参した。今年発足40周年の知研としては、ベテランの域に入るが、これからは従来に増して機関紙編集の面で出来る限り協力したいと考えている。
総会後の会食には、気配りと行動力が売り物の秋田英澪子事務局長が近くの洒落た店を見つけて予約しておいてくれた。日曜で定休日のところを敢えて開店してもらった。リーズナブルな価格で楽しい場を提供してくれた。秋田さんの心配りと面倒見の良さには脱帽!
670.2009年3月14日(土) 加藤周一氏と中谷巌氏
今朝NHKアーカイブスで「今をどう生きる‘知の巨人’加藤周一が残した言葉」を放映していた。加藤周一は昨年12月に亡くなって、その直後にいくつか追悼番組が放送され、その一部は観た。今日の番組を観て改めて加藤周一の終始一貫ぶれない姿勢に感銘を受けた。その中で加藤氏の強い信念を持った毅然とした言動が印象に残った。
ひとつは、東大医局に勤めていた頃に、アメリカと戦争をやっても勝てる筈がないことは明らかだと確信した。にも拘わらず、そのアメリカと交戦して先行きが心配であると感じていた。戦後になって当時の学者が戦争情報を政府から知らされていなかったと他人事のように文句を言っていた。しかし、それは可笑しい。知りえた筈だというのが加藤氏の説明である。
もうひとつは、戦時中知識人(河上徹太郎も入っていた)が雑誌で座談会を行った時の言い分と戦後の発言ががらっと替わったが、彼らはそれを恥ずかしいとも思っていないという主旨のことを述べている。
加藤氏は多くの言葉を残しているが、それが悉く真理を突いている。信念が微動だにしないことである。6日の本稿に書き込んだように中谷巌氏とは大きな違いである。「中谷巌氏『転向』の波紋」との見出し記事が朝日朝刊の2/3頁を費やしている。氏の最近著「資本主義はなぜ自壊したのか」がベストセラーとなった話題性のゆえに取り上げられたのではなく、市場経済の行き過ぎ批判へ転向表明したことが賛否両論の波紋を広げたという点で記事になっているのである。一部に同情論もある。しかし、ほとんどが中谷氏の「転向」に厳しい意見をぶつけている。
松原隆一郎・東大教授は、「経済情勢が変わるくらいで立場を簡単に変えるべきではない。・・・時流を意識したとしか思えない」と極めて批判的である。これに対して当人の中谷氏は、批判を受けることは百も承知で、「人間は成長とともに意見を変えるもの」と確信犯的にシャーシャーとしている。一橋大学教授として名を成し、多摩大学学長を経て、現在三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長として著名な氏が、世の批判を承知のうえで、敢えて「転向」を表明することに何ら良心のかけらもないのだろうか。
669.2009年3月13日(金) 西八王子「颯爽庵」で酒宴を楽しむ。
昨年の今日、鎌倉で3ヶ月前に旅行したチベットについて講演した。ところがちょうどその頃チベットでは、州都ラサを中心とするチベット民族居住区で中国の圧制に対する反対と、チベット民族自治権獲得のためのデモが起き、それは暴動へ発展していった。チベット民族自治のための戦いは、あっという間に各地に野火の如く広がり、一時は北京オリンピック開催が危ぶまれるほどだった。その後チベット自治区では中国軍によって自治獲得の運動は完全に封じ込まれてしまった。あの暴動直後の中国と中国人の世界におけるわが物顔のパフォーマンスにはうんざりし、反吐が出るほどだった。この様子を見て中国が嫌いになったという人を大勢知っている。他国で自国の正当性を言いたい放題振りかざし、世界中の顰蹙を買ったのはつい最近のような気がする。今も中国政府はチベットには本当の自治を与えていないようだし、チベット民族の自治なんか認める考えは毛頭ないようだ。中国が他国のことを考慮し精神的に自立するのはいつのことやら。
さて、今日は暦の上では、あまり縁起の良い日ではない。しかし、以前からの約束で、嬉しいことに昨年駒澤大学の公開講座を受けた時の講師のひとりである、菱山郁朗講師からもうひとりの受講者とともにご自宅へ食事に招かれた。菱山講師は日本テレビで政治部長や解説委員長を歴任され、ミュンヘン・サミットも取材されたり、フィリッピンのマルコス大統領への単独インタビューにも成功された、日本のマス・メディアの中でも傑出したジャーナリストのひとりである。首相経験者を始め、多くの政治家ともお付き合いを深めており、政界にも広く通じている。授業もマス・メディアの現場を踏んでいただけに、秘蔵のビデオを見せてくれては取材経験を話してくれ、それが随分勉強になった。
招かれたのは、JR西八王子駅近くの「颯爽亭」と称する、自宅とは一軒離れた角地にある風流な和風建物である。こういう民家風の日本家屋も久しぶりである。しばしば駒沢大学の学生たちを招いては、学生と交歓していると聞いた。永井荷風の「断腸亭」ならぬ、亡き父上お気に入りだった「颯爽庵」で談論風発したわけである。今話題の「小沢一郎」「中川昭一」「竹中平蔵」「岸恵子」「江川紹子」についても異論、反論、オブジェクションだった。コタツに足を突っ込みながら酒を酌み交わしたのも久しかった。遠慮することも、気兼ねすることもなくあっという間に愉快なひとときに、気がついたら4時間ほど経ってしまっていた。
腹がへったから軽くラーメンでも食べようと外出して、3人でそのままカラオケボックスへ飛び込んだ。ここで下手な軍歌をご披露して、すっかりリフレッシュして帰途につく。
すっかりいい気分になった1日だった。菱山先生、お世話になりました。ありがとうございます。