充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
ブログ一覧
1032.2010年3月11日(木) ネルソン・マンデラとラグビー・ワールドカップ
一昨日観た加藤周一先生のドキュメント映画「しかし それだけではない。」について、小中陽太郎さんとメールでやりとりして今日も加藤先生の晩年になってからのクリスチャン受洗について小中さんの考えをお知らせいただいた。一部には、加藤先生がキリスト教徒として洗礼を受けたのかどうかという点について、論議を呼んだようである。その辺りの議論は複雑なようだが、中々面白そうだ。無神論者だった加藤先生の受洗については、先生を知る教え子や周囲の間でも意外だったようだ。なぜ受洗されたのか。小中さんの考えるところでは、死への恐れと母親への追憶があると言っておられる。そして、実存主義も影響を与えているという。中々難しいものだ。
新潟にいる二男から、「インビクタス(負けざる者たち)」という映画が南アフリカのネルソン・マンデラ大統領と1995年に南アで開催されたラグビー・ワールドカップが絡んだ物語に仕上げられて面白いので、ぜひ観てはどうかと勧めてくれた。早速今日は特別予定のない妻ともども、渋谷へ観賞に出かけた。
かつて世界的に大きな波紋を投げたアパルトヘイトについて、クリント・イーストウッド監督がさりげなく取り上げた野心作で、アパルトヘイト廃止後のネルソン・マンデラ新大統領の苦悩と、南アの人種間の対立と憎しみ合いをラグビー・ワールドカップ開催に絡ませながら、実在のオールブラックスのスーパースター・ロムー選手らを登場させて臨場感を掻き立てている。1992年に南アフリカを訪れたが、当時はまだアパルトヘイトが厳然として存在して、黒人は隔離された居住地区で、白人からの差別に甘んじていると認識した。それが、この映画では、ネルソンが釈放された後総選挙で勝ち、初代大統領に就任した時、黒人の間に漂っている白人への対立と憎しみの感情をどうやって抑えさせ、国のために白人との融合を図っていくかということに腐心している様子をラグビーというスポーツを通じて映し出していた。
今では表面的には差別はなくなったことになっている。しかし、表から一旦消えた差別は、逆に陰湿な形で顔を出すこともあると思う。そのあたりの感情を大統領の黒人と白人の護衛官たちが、ラグビー場における大統領の警備を通じて国の発展のために、黒人と白人がお互いの愛国心から少しずつ分かり合っていくという筋書きである。
しかし、ワールドカップの大凡その結果は知っていたが、決勝戦の南ア・スプリングボックス対ニュージーランド・オールブラックス戦が、ペナルティ・ゴール合戦でノートライの引き分け延長の末、決勝点が南アのドロップ・ゴールで決まったとは迂闊にも知らなかった。
ラグビーファンならずとも、楽しめる映画ではないかと思う。
1031.2010年3月10日(水) 外務省公文書密約の調査結果を公表
日米外交文書密約問題を調査していた有識者委員会の報告書を昨日岡田外相が発表したが、昨日の夕方からマス・メディアでは蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
昨夕からのテレビ・ニュースはもちろん、今朝の朝日新聞の如きは、40頁の内全面広告が12頁で、残りの記事と広告28頁の中で実に8頁分も密約文書関係に費やしている。
今更言うまでもないが、日本政府が国民に対して嘘を言い続けていた不誠実さが30年経ってこの大騒ぎとなった。当然新聞の論調は日経紙も併せて政府に対して極めて批判的である。
国がまやかしとその場しのぎの逃げ口上で国民を騙していたことは歴然としている。今更何を言おうと元の鞘には収まらない。しかし、この嘘八百によって多くの人が迷惑を蒙り、その一方で嘘をついていながら我関せずと知らん振りは酷い。
日本政府が国民を騙した外交密約は4つある。
ひとつは有名な「非核3原則」であり、国内ではこれをよりどころに核廃絶を世界へ訴えてきた。それが嘘だと分かれば、世界へ発信していた日本の非核運動は何の説得力も持たなくなる。原子力空母により核が持ち込まれたとされる横須賀市では、前市長、現市長ともに憤慨している。長崎の被爆者代表も政府に裏切られたと悔しさが拭えない。
60年安保では、みんなとにかく当面の安保条約改定を阻止するとの強い意気込みで反対運動を続け、密約にまでは考えが及ばなかったが、その後何年か経過してどうも怪しいのではないかとの疑念を持った。
2つ目は、有事発生の場合米軍に日本国内基地の使用を認めるというもので、米ソ冷戦時代における朝鮮半島の戦闘行為を想定したケースである。
3つ目は、沖縄返還後に緊急事態発生の場合、アメリカが沖縄に核を持ち込むことに目をつぶるというものである。
4つ目は、沖縄返還時の原状回復補償額を日本が肩代わりすることである。
どうも不信感が消えないのは、肝心の公文書それ自体が紛失しているものがあることである。意図的に廃棄処分した可能性が強い。担当者がもうすでに退職しているからという理由だけで、この責任を追及しないのはおかしいと思う。
また、当事者がどの程度の情報を承知していたのか知らないが、首相在職時に白々と「承知していない」とか、「歴代の首相が密約はないと言っている以上ない」との空疎な言葉を、今以って言い、あまつさえ密約に拘わった人を堂々擁護するがごとき発言をする元首相のような人物をこのまま放っておいて良いものだろうか。
その最たる人物をひとり挙げれば、それは首相の座を放り出した安倍普三・元首相である。国家の大事に拘わった係累を弁護せんがために、安保条約改定を行った祖父の岸信介・元首相、沖縄返還交渉を成功させた叔父の佐藤栄作・元首相、核密約の東郷メモに記載された父の安倍晋太郎・元外相らに対して、国民への裏切り行為への反省や非難よりも、肉親を庇う言葉を悪びれることなく語り、自ら政権をいとも簡単に捨てた責任感の伴わない軽薄そのものの人物である。
こういう国民を騙しぬいたかつての国家のトップに言いたい放題言わせて良いものだろうか。
それに引き換え、密約を暴き自身職を失いながら、今も国家を相手に裁判で戦っている西山太吉元毎日新聞記者の執念には頭が下がる。
さて、今日3月10日は、65年前東京大空襲のあった日である。当時の遺族は今でも涙が止まらないという。その年私は国民学校へ入学した。
夕べから今朝にかけて強風が吹き冬型の荒れた天気で雪が積もった。この気象異変に、鎌倉八幡宮の樹齢1,000年とも言われる「大銀杏」が倒れた。鎌倉幕府3代将軍源実朝が、その陰に隠れていた甥の公暁に殺害されたという伝説的樹木である。地元の人も落胆している。
もう1件落胆させられたのは、佐渡で育てられていたトキ9羽が今朝死んでいた。どうもトキが飼育されていたケージに野生の動物が侵入して殺されたらしい。これも可哀相で切ない。
1030.2010年3月9日(火) 鳩山内閣及び民主党の支持率低下
鳩山内閣と民主党の支持率低下が止まらない。マス・メディアが行っている世論調査でも、発足当初には考えられなかったほどの落ち込みである。昨日NHKが発表した支持率は、1月には50%もあったが今月は38%にまで下落している。政治とカネの問題が直撃したうえに、鳩山首相の決断力とリーダーシップの欠如、加えて普天間基地移設問題のもたつきぶりに国民が愛想をつかしているのだと思う。
民主党では、小沢幹事長の渡米問題でアメリカ政府高官らが鳩山首相と幹事長との力関係について予断を持ったコメントを述べたり、藤田幸久国際局長がアメリカのワシントン・ポスト紙に対して9.11テロについて必ずしもアルカィーダの仕業ではないというアメリカ人の神経を逆撫でするような発言をして顰蹙を買ったり、日米間の外交関係がまたまたギクシャクしてきた。すべて首相に責任があるわけではないが、どうも末期の自民党長期政権時代とあまり変わらなくなって来た。
昨日は、国民新党と社民党が普天間基地移設問題で党としての移設案を提案したとの報道があった。国民新党は前々からキャンプ・シュワーブ陸上案を考えているようだ。ところが、この日キャンプ・シュワーブのある名護市議会が全会一致で受け入れ反対決議をした。1月には市長選で反対派の市長が当選した。決定までの前途は厳しい。
他方社民党の提案は、県外移設・国外移設案らしい。ところが、先日もこのブログで触れたが、社民党は相変わらず海外移設案でもグアムに拘っている。グアム知事があれだけ受け入れ反対を公言しているにも拘わらず、可能性のまったくない案に固執するのはなぜか。しかも、グアムのすぐ隣のサイパンでは、知事自ら受け入れに前向きな姿勢を示している。サイパンに見向きもせず、可能性のない国外と県外一辺倒の移設案は、社民党が非現実的政党であることを如実に物語っている。
それにしても、民主党の態度はあまりにももたもたしている。
夕方近くなって岡田外相が記者会見で、昨年9月以来調査していた日米の外交文書に密約があったことが明らかになったと公表した。
1029.2010年3月8日(月) 加藤周一先生が語る「ドキュメンタリー映画」
ロサンゼルスで今年の映画アカデミー賞授賞式が行われた今日、それにあやかったわけではないが、久しぶりに映画鑑賞に出かけた。
一昨年12月に亡くなられた加藤周一先生が語りかける映画「しかし それだけではない。」を渋谷で上映していると新聞広告で知ったので、玉川税務署へ納税申告をした後渋谷へ向かった。道玄坂界隈で立地の分かりにくい「シネマ・アンジェリカ」を交番で尋ね、何とか探し当てた。副題に「加藤周一・幽霊と語る」とふざけたタイトルが付けられているだけに一風変わった、だが心に訴える記録映画だった。
亡くなった年の夏までの間にすべて収録されたフィルムであるが、「知の巨人」と呼ばれる知性とぶれない信念、論理的な整合性を持って反戦、恩師、戦死した友人の思い出等について、東大本郷、駒場、信濃追分で淡々と、しかし信念と愛情を込めて真摯に話された加藤先生のお人柄とそれまでの活動を紹介する意欲的な試みである。学生時代と大東亜戦争、平和運動の話に終始して、意外にも外国生活の長かった先生にしては海外の話が少なかった。確か先生は1968年の「プラハの春」の際、車を運転してチェコへ入国し、その当時の緊迫した空気を体で感じ取った筈である。出来れば「プラハの春」について一言でも良いから話してほしかった。
映画を通して先生の言葉の中に、絶対戦争はやってはならないという強い意思を感じた。何のために戦争をやるのか、まったく無意味であると強調されていた。「九条の会」の世話人を務めながら、長い間平和運動に関わり、その生き方や考え方はぶれることなく終始一貫していた。それが、多くの人びとの心を捉えたのだと思う。
2007年夏亡くなった小田実さんの葬儀の折お姿をお見かけしたが、その時小田さんへの弔辞で「あなたはべ平連を始めとして、いつでも仕掛け人として先頭に立った」と小田さんの行動力を高く評価したことが印象に残っている。
この映画は大手映画会社ではなく、「加藤周一映画製作実行委員会」が自主的に製作したものである。恐らくプロデューサー、監督ともに加藤先生の生き方と考え方に心酔して採算を度外視して作られたものだと思う。座席も100席程度の小さな映画館で1日に4回の上映では、果たしてペイできるのか気になるところである。こういう地味で良心的な映画をもっと多くの人、特に映画の中で加藤先生が「老人と結託すべきだ」と煽っていた若者に観てもらいたいものである。
1028.2010年3月7日(日) 名曲「雪の降る街を」と内村直也さんの思い出
昨日の朝日新聞の付属頁「be」1面と3面に、中田喜直が作曲した名曲「雪の降る街を」の誕生のいわれについて詳しい紹介記事が掲載されている。誰でも知っている雪国の情景を寂しく抒情的に唄った歌で、直ぐにでも口をついて出る歌い易いポピュラーな曲である。この曲を想うと思わず作詞者だった内村直也さんのことが思い出される。
あれは旅行業者に転向した昭和44年の夏、まだ新米添乗員として20数名のお客様を、主催旅行で北海道へ案内した時のことである。お客様の中に内村直也(本名菅原実)さんが参加しておられた。本名で参加されたので、初めの内は内村さんであることが分からなかったが、お仲間のひとりがそっと教えてくれた。中々口の煩い7名ぐらいのお仲間と参加された内村さんは、温厚な方で私がマニュアル以外に、自分で工夫した手作りのコピー資料を参加者全員に配布したことを随分お誉めいただいた。大学の先輩・後輩であることも分かって、余計に気を遣っていただいて、とても思い出に残る旅行となった。
お仲間の1人が当時の北海道知事・町村金伍氏と親しくされていて、その晩みんなで会食するのだとその方が教えてくれた。
次の日の札幌市内観光の時、バス・ガイドさんが内村さんを一目見て、「雪の降る街を」を作曲された内村直也さんではありませんかと私にこっそり尋ねた。そうだと教えてあげると、すっかり感激してこの曲は北海道のバス・ガイドにとって最も人気のある歌で、誰でも必ず車内でご披露するのだと言っていた。そしてガイドさんは美しい声で情感たっぷりに「雪の降る街を」を歌ってくれた。内村さんは黙って聞いておられたが、どんなお気持ちだっただろう。
朝日新聞に依れば、この名曲はフィンランドの映画作品で1992年にベルリン国際映画際国際批評家賞を受賞した「ラヴィ・ド・ボエーム(放浪者の人生)」のエンディングでフィンランド在住の篠原敏武さんと仰る日本人歌手が歌ったという。外国人をも唸らせる名曲だというわけである。
NHKラジオ・ドラマの人気番組だった「えり子とともに」の主題歌として歌われた曲だが、記事を読むと出来上がるまでに中々面白い伏線があったようである。街のイメージは旭川とも鶴岡とも言われ、それぞれに綱引きをやって記念の碑とか、記念館があるらしいが、作詞家、作曲家ともにどこが曲の生まれ故郷であることかについては明らかにしていない。土地を特定しなかったのは、お2人とも聴く人が自由に想像を広げることを望んだからだと記されていた。
久しぶりに懐かしい気になった。しかし、記事の最後にこの曲が生まれて40年と書かれてあったが、そんな筈はない。私が内村さんにお会いしたのが、今から41年前でその当時すでに大流行していた。折角の魅力あるストーリーなのにつや消しである。天下の朝日も原稿のチェックが好い加減だなぁとちょっとがっかりした。