ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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1180.2010年8月6日(金) 広島原爆投下から65年

 今年も巡ってきた広島「原爆の日」である。原爆投下、そして終戦に至った灼熱の夏からすでに65年が経つ。

 昨年アメリカのオバマ大統領がチェコのプラハで核兵器の廃絶を訴えて、世界中で平和を希求する人々から万雷の拍手で迎えられ、核廃絶に対する世界の目が少し変わった。オバマ大統領には、昨年その感動的な宣言による「核廃絶」への期待を込めて、ノーベル平和賞が授与された。

 しかし、核保有大国・米ロ間の核兵器削減交渉は少し前進したが、相変わらず核保有国の利己的な主張の前に大きな前進は見られない。

 「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に国連事務総長として今日初めて出席した潘基文氏は、就任当初から核廃絶の強い願いを抱いていた。核保有国の代表に対しても個別に、核保有削減へ向けて粘り強い説得を続けている。昨日も長崎の浦上天主堂を訪れ被爆者にも会い、昨日1日は事務総長にとっても「最も深く心を揺さぶられた日で、人生でこの種の感動的な日を経験したことはなかった」と述べた。今日のスピーチでも「核の危険を排除するには、核兵器を廃絶するしかない」とその信念には揺るぎがない。

 今日の式典には、アメリカの高官としても初めてルース駐日大使が参列した。イギリスからも、フランスからも初めて代表が出席した。そのせいで、今日海外でも広島のニュースがこれまでになく強いメッセージで伝えられたようだ。広島から世界へ向けて核廃絶の動きを示すひとつのパフォーマンスは具現出来たと思うが、秋葉忠利・広島市長が最初の挨拶で日本政府に対して「非核3原則の法制化と核の傘からの離脱」を訴えたのに対して、菅首相が式後の記者会見で世界の現状からみれば、核抑止力は効果的であると応えていた様子からは、日本から強い発信力は期待出来そうもない。

 今年11月にオバマ大統領が来日される際、果たして大統領自身が核廃絶を願う気持ちを広島、長崎へ立ち寄ることで実際にひとつの形として表すことが出来るか。アメリカ国内に根強く残る「原爆投下は戦争早期終結に効果があった」とする原爆投下を是認する世論を押し切って、強い核廃絶の意志を行動に移すことを期待したい。

 それにしても広島や長崎から核廃絶の声を発信するのに、日本のトップよりも世界のトップに期待するのは忸怩たるものがあり、何とも情けないことでもある。

 夜になってNHKで75分のドキュメンタリー番組「吉永小百合被爆65年の広島・長崎」が放映された。女優吉永小百合さんが、長い間続けている原爆の悲惨さを書いた詩の朗読のドキュメントだった。広島と長崎を訪れ被爆者とその関係者らにインタビューして、深く重く考えさせる中々良いストーリーを創り上げていた。

 3日後には長崎の「原爆の日」がやって来る。

2010年8月6日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1179.2010年8月5日(木) 1年半前のブログ投稿書き込み

 以前にインターネットのウェブサイト上に「古井戸さん」と名乗る方の硬派のブログが掲載されていて、そこに私が意見を書き込んだ。偶々今日そのブログを見つけたので、その時のことを漠然と思い出した。私の後に続く投稿者は元赤軍派幹部の「植垣康博」である。あさま山荘事件で全国に指名手配され、最近静岡方面でバーを経営していると仄聞した。

 ブログのテーマは一昨年12月に亡くなった加藤周一先生についてである。先生が亡くなって1ヶ月後の昨年1月30日付で、私は次のように書き込んでいる。

 「60年安保闘争に参加して、ベトナム反戦に関わりました。ベトナムにも中東にも行き、遂にヨルダン軍に身柄を拘束されました。前途に光が見出せず、チェコのカルレ大学留学を志しました。これが何と『プラハの春』で挫折となりました。挫折だらけの半生でしたが、漸く古希を卒業して、学生時代に月刊『世界』で夢中になって読んだ加藤周一先生の卓見にうなずいております。惜しい方が亡くなられたと残念でなりません。随分動いたが、私も結局権力に飲まれてしまったのではないかと反省しきりです。安保闘争ではわれわれ学生に理があった。しかし、結果は権力につけ入れられ、安保反対の正論は蓋をされ無視されています。若者に言いたい。権力にひるまず前進せよ!」とある。

 古希を過ぎて随分尖ったことを言っているが、それはその直後にNHK・ETV特集「加藤周一 1968年を語る‘言葉と戦車’ふたたび」を観て、ちょうど1968年‘プラハの春’事件直後に自ら車を運転してチェコに入り、取材した加藤先生の並外れた行動力に感心し、喝采を送ったからである。

 私が‘プラハの春’で留学を断念したのは、その時すでに会社へ辞表を出し、9月に日本を発つ予定で準備を進めていたところ、8月20日未明に突然ソ連軍戦車がチェコの首都・プラハへ侵入して市内を蹂躙し、プラハが一夜にしてソ連の植民地となってしまい、留学どころではなくなり、泣く泣く諦めたからである。 あの後加藤先生の足跡を辿る映画も観た。今年は60年安保50周年記念の年でもあり、何かにつけ思い出すことが多い。

 昨日も「知的生産の技術研究会」八木哲郎会長から書中見舞いのメールをいただいたが、最近酒を飲み交わしながら60年安保時代の問題を話し合える人が少なくなったとあった。特にそういう65歳以上の人と会う機会が減ったと嘆いておられた。よく分るなぁ。

2010年8月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1178.2010年8月4日(火) ロシアの「第2次世界大戦終結の日」とは何だ?

 先月ロシアは日本が降伏文書に署名した9月2日を一方的に「第2次世界大戦終結の日」という記念日に決めた。ロシア国内の国事行為とは言え、ロシアが北方領土の実効支配を正当化することを恐れた日本政府は、ロシア政府に見合わせるよう伝えていたが、結局覇権国家・ロシアが独断的な考えを引っ込めるはずもなく、ロシアにとって特別の記念日となった。

 夜にNHK「クローズアップ現代」では北方問題を取り上げ、「北方問題の真相」と題してロシアの終戦直後の北方4島への侵略・占領を伝えていた。ロシアの図々しさには、今更ながら驚き呆れるばかりである。

 現在沖縄の米軍基地ばかりが騒がれているが、戦後旧ソ連とロシアが行った山賊行為、日本兵のシベリア抑留と北方4島の実効支配は、考え方によってはもっと強引であくどい。冒頭の記念日は、その日にちを9月2日に決めることによって、ロシアの4島支配を戦利品として認めさせようとの意図がありありである。日本がポツダム宣言を受け入れ降伏宣言をしたのは、8月15日であることは国際的にも承認されている。そもそもそのポツダム会談にはソ連から軍服を着たスターリンが偉そうに出席して、その一部始終を承知していたのではなかったか。ポツダム会談の目的は第2次大戦の戦後処理と日本を早く降伏させることであり、ソ連の強引な漁夫の利を容認するものではなかった筈である。しかもポツダム会談が終ったのは8月2日だった。スターリンが8月15日の日本の降伏宣言を知らないわけがない。手続き上書名は9月2日になったが、それを日本の降伏日とこじつけるにはいかにも無理がある。

 ロシアには、シベリア抑留について抑留中に生命を落とした日本兵と日本国民に謝罪する責任だってあるのではないだろうか。戦後60万人近い日本兵を厳しい条件下に抑留し、ほぼ1割の兵士を死に至らしめた。そのうえに北方領土の永久占領とは、盗人猛々しいにもほどがある。この件については、旧ソ連と現ロシア政府ともにまったく知らん顔である。

 日本政府もロシア政府に対して筋道を立てて論理的に日本の立場を強く主張するべきではないだろうか。勝者と敗者であってもこんな理不尽なパフォーマンスをされては、堪ったものではない。うかうかしているとロシアには、北方4島の次に、利尻・礼文島まで奪われるような悪夢を見させられそうだ。

2010年8月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1177.2010年8月3日(月) 先の戦争の正式名は何と呼ぶのか。

 朝日夕刊の「終わりと始まり」という連載エッセイ欄に作家・池澤夏樹氏が、「(土地の名・戦争の名)呼称の困難について」と題する文を寄稿している。いろいろなものの名前に関心があり、こだわりもあるようだ。わが自宅近くの自由が丘の名のいわれについても、語源は学校名から来ているという。自由が丘は丘ではないともいう。確かにそれほど大きな丘ではないが、東横線自由が丘駅前ロータリーから自由通りを通らず目黒通り方面へ向かえば、石坂洋次郎の「陽のあたる坂道」と呼ばれているなだらかな上り坂がある。自由通りに出れば、そこには「自由が丘学園」がある。この学園も歌手・舟木一夫が卒業し、歌った「高校三年生」のモデル校である。池澤氏が言うように、この学園の名前を拝借したのかどうかは分らない。

 それより池澤氏が触れた戦争の名の方が気になる。65年前に終戦となった先の戦争である。開戦直後に当時の東條英機内閣が閣議で「大東亜戦争」と正式に名づけた筈であり、その事実を知ってから私自身それまで太平洋戦争と呼んでいたのを「大東亜戦争」と言い、講演などでもそう話している。

 池澤氏によると大東亜戦争という言い方は敗戦後使えなくなったらしい。それで何と呼ぶべきか困っている。日中戦争と呼んではアメリカが見えなくなり、太平洋戦争と呼んでは日中がすっぽり抜けると悩んでいる。そこで第2次大戦でドイツに東部戦線と西部戦線があったように、日本にも大陸戦線と太平洋戦線があったということにしようということで、エッセイはチョンとなっている。だが、こうも付け加えている。アジア・太平洋戦争と呼ぶのが一般的らしいが、アジアという名はトルコ方面まで含めるので広すぎるのではないかと。

 戦後65年にもなってまだ正式に戦争の名をつけないのはどうしてだろうか。前九年の役、後三年の役、壬申の乱、壇ノ浦の合戦、応仁の乱、関が原の戦い、川中島の戦い、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、等々のようにすべて大戦争には正式な名前がついているから後世の人間が記憶に留めるのに役立つのだ。これではあと65年も経ったら、「戦前は大東亜戦争と呼ばれたが、戦後は名前がない」戦争とでも呼ばれるようになるのだろうか。

 これを連鎖反応と呼ぶのだろうか。1966年冬航空機墜落事故が3件も連続して起きたが、今度は山の遭難事故と高齢者の行方不明の連鎖である。特に後者の高齢者について、各自治体が百歳以上の高齢者を自発的に調査したら出るわ出るわ後から後から、行方不明者が明らかになった。都内でも港区、荒川区、八王子市などから、また名古屋市でも、静岡県、長野県からも不明の高齢者が明らかになった。流石に長妻昭・厚生労働相も、110歳以上の高齢者で年金受給者については各自治体が訪問して本人に会って確認するよう指示したと記者会見で応えた。

2010年8月3日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1176.2010 年8月2日(月) 2人のジャーナリストはなぜガイドの忠告を無視したか。

 小型航空機やヘリの墜落事故が頻発している。それも登山事故とリンクしているから不思議である。その中でもオヤッと思ったのは、秩父山中で遭難者を救出中にヘリが墜落して5名が亡くなり、遭難者も結局死亡した事故である。救われるべき者も救うべき者も死んでしまっては、何のための救出活動だったのか、脱力感が拭えない。

 ところが、昨日この遭難事故を取材しようと山中に入った日本テレビの記者とカメラマンが沢で亡くなった。この2人は、当初ガイドに案内されて事故現場へ向かったが、沢登りをするには軽装すぎるし、天候が悪化しそうだと考えたガイドの決断で引き返した。その後2人はガイドを連れずに山へ入り、結局遭難死した。

 日本テレビ側とガイドの言い分が食い違っていて、真実ははっきりしない。しかし、状況証拠からするとガイドの言うことが正しいようだ。大体ガイドが止めようと言ったことを軽視して、敢えて強行した強引な行動が事故につながったと思う。

 やはり2人は山を舐めていたとしか言いようがない。特に、カメラマンは大学山岳部に属し、仕事でもヒマラヤを始め海外の山を度々歩き登山経験は充分だったようだ。だが、私の浅い登山経験から言っても、尾根歩きと沢登りは大分違う。今度の秩父山中の事故現場は、どちらかと言えば沢登りである。これに対して服装は沢登りのものではなかった。日本テレビは、問題なかったと思っていると好い加減な説明をしていたが、やはり会社側に責任ありだと思う。

 一昨日ブログで111歳の男性がミイラ化していたことについて書き込んだ。ところが、今日杉並区では113歳の都内最高齢者の女性が住民登録をしているアパートに住んでいないというミステリーもどきが明らかになった。これだって111歳の男性の事件を受けて、杉並区がその女性を調べた結果判明したらしい。常識的には長寿の方なので近隣の人びとがお祝いするのが普通だが、今度の2件はいずれも近所付き合いがまったくなく、そういう人がいるとも知らなかったというのが近所の話だ。近所の人々と関わりを持たなくなったというのが、昨今の風情である。もう昔あった向う三軒両隣のような隣組の人情は消えてしまったようだ。寂しい時代になったものである。

2010年8月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com