充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
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1369.2月11日(金) 寂しい建国記念日
昨日の本項に書いたように、今日は建国記念日で昔風に言えば紀元節に当たる。終戦翌年の紀元節を当時の国民学校の狭い講堂で、意味が分らないながらも全校生徒が、♪雲に聳ゆる高千穂の~♪で始まる「紀元節の歌」を唄いながら、お祝いした遥かな記憶がある。
ところが、建国や国の歴史を象徴するような言葉も話も、今日の新聞、テレビのニュースを見る限りまったくない。インターネットのWEBサイトのニュース欄を見ても関係記事が見られない。これでは何のために建国記念日を制定したのか意味がない。折角建国記念日を国民の祝日と決めたのだから、少しはメディアも報道面でもう少し取り上げるよう配慮すべきだと考えるがいかがなものだろうか。皮肉なニュースとして、天皇が東大病院で心臓の冠動脈の検査を受けられたというのが、建国、或いは王室に関する唯一のニュースである。
旧文部省教育海外視察団にお供してアメリカの学校を訪問した時に聞いた話がある。アメリカ人が決して忘れてはならないエポックメイクな日時として、アメリカ大陸発見の年(1492年)、アメリカ独立記念日(1776年7月4日)、そして配偶者の誕生日と結婚記念日だそうである。独立とか建国の年というのは、その国民にとっては肝に銘じて覚えておくべき日であることは洋の東西を問わない。特に忘れっぽい性格の日本人は、意識しないとすぐ忘れてしまう。それだけに日本の歴史を知るうえでも、国がもっと建国記念日の啓蒙化に力を注ぐべきだと思う。
今ロシアが北方領土を自国領土として強く主権を主張し出したのも、日本人の建国意識の薄い点を突かれたのではないかと気になっている。
せめて建国の日ぐらい、政府が文部省を中心としてマス・メディアが、国の歴史に関する事実を国民に伝える努力をする必要があると思う。今のありようは国を維持し、発展させていくための体を成していないと言ってもいい。
さて、このところムバラク大統領辞任要求デモが鎮静化していたエジプトで、今日再びデモがぶり返してきた。今日の朝刊各紙のフロント・ページはほとんど「ムバラク大統領辞任へ」と断定的に書かれていた。この後大統領が辞任演説をして職を辞するとの期待だった。軍の支持が得られず、混乱が収まらないので、身を退くという筈だった。ところが、大統領は権限をスレイマン副大統領に譲るが、課せられた責任を全うするために、その地位に任期いっぱい留まるというテレビ放送を行ったために事態は再び混沌としてきた。
一度権力の座に就くとどうしてもしがみつきたくなるようで、ムバラク氏も長期間に亘る任期を全うして多くの国民から惜しまれながら栄光の中で去りたいらしい。だが、今やムバラク氏の思惑は完全に外れた。ここで辞めるよりは、留まって自ら国を混乱から救う以外に国家を安定させる方法はないと考えたようだ。権力者の引き際というのは、つくづく難しいものだと感じる。
今日は1日中雪が降っていた。近年東京では珍しい。外へ出かけることもなく自宅の庭を見ていると雪を冠した松の木に風情がある。日本のしっとりした冬の情緒はやはり松と雪だ。
1368.2011年2月10日(木) 今年は大東亜戦争開戦70周年
今年は大東亜戦争開戦70周年という記念の年であるが、戦争に狩り出されて辛い戦地生活を送った方々にとって、また悲惨な戦争体験を背負った遺族にとっては、思い出したくもない唾棄すべき年であるのかも知れない。
今年も開戦の12月8日と終戦記念日8月15日が近づいてくると戦争に関するニュースが流れてくると思う。
昨日自由が丘駅前の書店へふらりと入ったら、学研の「歴史群像アーカイブ<太平洋島嶼戦>」なる書物が目に入りつい買い求めてしまった。それらの島嶼の内いくつかの島に、度々旧厚生省の戦没者遺骨収集団のお供をして、或いは下見調査で訪れ、おかげで一般の人が知りえない戦地の現場をつぶさに観察することが出来た。同書をぱらぱら捲っていると思い出すシーンが随分ある。サイパン、グアム、テニアン、ロタ、パラオ、トラック、コロール、ペリリュー、アンガウル、ニューギニア、ガダルカナル、ニューブリテン、ブーゲンビル等々の中部太平洋の島々を何回となく訪れた。長年に亘って戦没者の遺骨を奉還するという尊い事業に関わることが出来て、戦争に関する知識とともに、戦争を見る視点が幾ばくかは変わったように思う。
私が学生時代から関心を持ち、安保と南北問題から世界の戦乱の地を訪れ、そこで覚った臨場感や、戦争自体に対する考え方とは、若干異なるものではあったが、大東亜戦争の現場で知ったことは計り知れないほど今日仕事面でも生活面でも役立っている。
何度も遺骨収集団でご一緒した日本遺族会の水落敏栄氏は、今や自民党参議院議員として遺族会の支援を背に、大和魂と日本人としてあるべき姿勢について存在感のある発言をされておられる。
明日は建国記念日であるが、近年国内で話題になることが年々少なくなってしまった。ましてや建国、紀元に関して深く話されることもない。この建国記念日にしても単純に右翼的な記念日と考える人もいるが、そう短絡的に捉えるのではなく、先の戦争原因の原点のひとつと反省の気持ちをもって考えることが大切ではないか。
建国記念日の明日から全国で映画「太平洋の奇跡」が封切られる。玉砕の島・サイパンで苦戦の末生き残った大場大尉の自伝的ドキュメンタリー映画らしく、その内容とさわりについてここ数日テレビで紹介されている。サイパンの激戦の場面も多いようなので、どういう風に描かれているのか観てみたいと思っている。
それはそれとして、今も世界各地では紛争や戦争が絶えない。いつの時代にも反戦の声があがる。しかし、すぐにこの声はかき消されてしまう。70年前に犯した過ちを繰り返すまいと誓ったはずのわが国の周辺にもそんな空気はないだろうか。
1367.2011年2月9日(水) 明るいニュースは冬枯れ状態
ほんの僅かではあったが、今朝この冬初めての雪が降った。カラカラ陽気の中で、少しは「干天に慈雨」ならぬ「乾天に慈雪」となっただろうか。
このところ国内外ともに芳しいニュースはさっぱりである。エジプトの反政府デモは一時収束へ向かうかと思われたが、しばしデモ疲れを癒すかのような中休みで、その先には再び混乱がぶり返しそうな様子である。
ビルマでは、怪しげな軍人支配の民主政府が発足しそうだが、漸くスー・チーさんが一言発言した。諸外国へ向かってビルマ現政権下では経済制裁を解除しないで欲しいと、国民感情とは反対で相容れないはずのことを述べた。もちろんスー・チーさんの真意は多くの国民が理解し、厳しい経済封鎖の中でも我慢しようと考えてくれると判断したうえでのことだと信じる。
国内では、北方4島がらみの日ロ関係がギクシャクし出した。メドベージェフ大統領を始め、ロシア高官が続々と北方領土を訪れていることに対する菅首相の辛らつな発言が、ロシア政府を大分刺激したようである。今朝の朝日の社説にも取り上げられている。
首相の言葉遣いに苦言を呈したうえで、日ロ間に正常な首脳外交が機能していないと指摘する。まったくその通りで、これは政治家の責任でもあるが、何よりもこれをお膳立てすべき外務省の無策無能ぶりをも露呈したのではないか。建設的な対話の回路がまったくない。朝日は、「これまでの領土交渉の経緯について何が認められ、何が認められないかを両国がきちんと確認し合うことだ」と提言する。お互いに声高に相手を誹謗中傷するだけでは、何の成果も得られまい。わが国としては、ロシアの北方4島占領に対する国際社会への問題提起と発信、と同時に両国間で議論を闘わせるルールを作りあげることが重要である。覇権国家のロシアは外交相手としては相当手ごわいが、だからと言って相手に言われ放しではジリ貧になるばかりだ。
国会は小沢一郎・民主党元代表の強制起訴に対して野党の国会招致や、議員辞職の要求に対して民主党内では今もって結論が出ない。国会は小沢氏の顔を遠目にしながら細々と議事を行っている。今日菅政権になって以来初めて与野党党首討論を行った。質問者と答える首相の間でヒートアップはしたものの、相変わらずすれ違いの論戦で、とても濃密な党首論戦とは行かなかった。
むしろ、大相撲の八百長問題の方が大向こうの興味を呼んだ。今日は力士会を代表して横綱・白鵬が謝罪会見をしたが、難題を解決するには全相撲界が一致協力しなければならないのに、その気持があまり感じられないことが気にかかる。任意で携帯電話の提出を求められているにも拘わらず、あまり積極的に協力しようとする力士がいないことがその典型である。この様子では解決までに相当時間がかかりそうな気がする。外からでは分かりにくいが、ひょっとすると親方衆と力士が大分汚染されているのではないかと勘ぐらざるを得ない。こんな状態ではこれからどうなるのだろうか。
1366.2011年2月8日(火) 住民の声は本当に正鵠を射ているのか。
一昨日行われた愛知県の3つの選挙の投票結果が新しい地域住民の行動パターンを変えるのではないかと注目されている。3つの選挙とは、県知事選、名古屋市長選、市議会解散の是非を問う住民投票で、知事には自民党を離党した大村秀章氏が圧勝し、名古屋市長選では持論を訴え、つい最近辞職したばかりの河村たかし氏が圧勝した。両氏とも党派を超えた無党派層を結集し、民主党と自民党候補者を大差で破った。もうひとつの名古屋市議会の解散についても市民が下した結論は、河村氏の望む解散だった。
前々から危惧していた、政治の空白と過大な出費に関してはあまり話題になっておらず、むしろ名古屋市民が既成政党の常識や政党論理に捉われなかったことを評価するマス・メディアの論調が目立つ。知事選と市長選の結果は、敗北した民主党、自民党にとって深刻な問題を提起した。今年4月全国各地で行われる統一地方選では、愛知の結果がどれほど自営に影響されるのかを測りかねているのだ。
トップの座に誰が就こうと、自治体としては住民が安定した生活を送れるよう智恵を絞るのが最大の責務であり、名古屋市長選のように度重なる選挙で時間の空白を作るようでは本旨に悖ると考えている。河村新市長には自分の意見を住民に訴え、持論を通すのは了としても名古屋市民のために、どれほど粉骨砕身の努力を払い、市民を納得させられるかということが原理である。
因みに元島根県知事だった片山善博総務相は「河村流は邪道。行政改革を一所懸命にやり、自治体が抱える巨額債務を減らす方に振り向ける。巨額債務があるのに減税するのは、長期的な財政運営の観点からいかがなものか」と河村氏の訴える市民税減税に手厳しいコメントを述べている。河村氏の人気取りの個人的パフォーマンスと捉えているのだ。
さて、昨年来メドベージェフ首相以下ロシア首脳が度々北方4島を視察して、国ぐるみで実行支配を固めつつことに対し、昨日菅首相は許し難い暴挙と発言した。これにロシア政府は即座に「北方領土の主権を見直すことはない」と反論した。ロシアがどう自己主張しようと、北方領土が日本の領土であることは歴史的にも1855年に締結された日露通交条約でも明確に証明されている。ロシアは第2次世界大戦の戦利品という解釈であるが、それはロシアの一方的な言い分で、国際的にも通らない論理だ。
問題は、日本政府がこれまで一言もロシアに対して日本の正当性のある論理をぶつけてこなかった点である。ここにも日本外交の弱さがある。これからはただ自国の領土だと主張するだけでなく、国際社会に向かって論理的に説明し、共鳴者、同調者を増やす努力を続けていくべきではないだろうか。その点で政治家の責任は重い。いつまでも国会内で与野党が喧嘩をやっている場合ではない。
1365.2011年2月7日(月) 元連合赤軍幹部・永田洋子獄中に死す。
昨日元連合赤軍・最高幹部のひとり、永田洋子が亡くなった。晩年は体調を崩し、死刑囚でありながら刑務所内で手術を受けたり、寝たきり状態で「手厚い看護」を受けていたが、多臓器不全により65歳のドラマチックで薄幸とも思える人生の幕を下した。
「あさま山荘」事件の直前、赤城山を拠点に転々とアジトを移動しながら集団リンチで多数の仲間を次々に謀殺して、もうひとりの最高幹部・森恒夫とともに逮捕された、希代の鬼女である。あの忌まわしい事件からほぼ40年の月日が経つ。
「日本赤軍」が海外でダッカ日航機ハイジャック事件や、オランダ・ハーグ事件、テルアビブ空港乱射事件、等派手なテロにより世界的な注目を集めたが、過激で無意味なテロが当時のアラブ左翼グループから一歩距離を置かれることになった。その一方で国内では学生運動の急進派は各セクトを大同団結して、「連合赤軍」として組織を再構築し、次第にテロリスト的な活動で国内の過激的な学生の間に徐々にその存在感を強めていった。その一部の幹部の正気の沙汰とも思えない突出した行動が、社会的に大きなショックを与える過激な運動へと突っ走っていった。
忘れもしない凶暴な連合赤軍の運動の中で、しばしば名前が挙がった永田、森、奥平純三、和光晴生、重信房子、坂口弘、坂東国男、岡本公三らに反省の言葉はなく、自殺死、獄中生活、そして今も海外へ逃亡している者も数多くいる。全学連は当初高校ラグビー部の先輩、清水丈夫書記長らが主導した純粋な学生運動から出発し、60年安保闘争を経て、ベトナム反戦へ発展させた運動の過程で離合集散を繰り返すうちに、どこでどう間違えたのか、組織を人殺し集団へ変貌させてしまった。永田が亡くなった今になっても、「あさま山荘」事件で逮捕されて13年間服役した加藤兄弟の弟、加藤倫教氏も永田らの突出した真意が理解出来ず、「ベトナム戦争に反対したことは今でも間違っていたとは思わない」が、リンチや人質を捕ったりしたことがどうしても納得出来なかったようだ。
私自身60年代から70年代の初めにかけて、ベトナム反戦運動に関わったが、1日も早く戦争を停めさせてベトナム人民を悲惨な生活と貧困から解放しようとの素朴な思いだけだった。とても、連合赤軍のように同じ目的を抱く同志に暴力を加えるなんて考えられもしなかった。永田や森からすれば、自分たちに逆らう者はみな逃亡兵に見えたのかも知れないが、彼らの言動には心のゆとりや、良心、思いやり、話し合い、説得、情愛がなく、直ちに同志を「総括」してしまうほど、憎しみの感情が燃え上がり一直線に暴力に走り、その行動は一気に跳ね上がっていった。今もって彼ら70年安保世代の跳ね上がった一部とわれわれ60年安保世代とは、多くの点で考えが相容れないと感じている。
それにしても、大きな時代の流れと感慨を感じさせる永田洋子の非業の死である。