充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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1459.2011年5月12日(木) 森喜朗・元首相にお会いして相澤酋長について伺う。
佐々木信也先輩と衆議院第1会館で待ち合わせ、ともに森喜朗・元首相と面会して森さんサイドの「相澤進トラック島酋長情報」を伺った。元首相と佐々木さんは、子息がともに玉川学園に在学中PTA会長・副会長のコンビだったということから、以前から親しい間柄である。傍でみていてもお2人が親しいことが窺える。
元首相が度々トラック島へ出かけ、相澤酋長に会っておられたということは先日佐々木さんから伺っていたが、元首相の父上がトラック諸島で終戦を迎えたとは知らなかった。父の森茂喜・元歩兵隊長は敗戦後捕虜となったが、元首相と同じくラグビー選手だった経験が活きたようで、島でもラグビーをプレイして、管理していたイギリス兵チームと親善マッチを戦った。また、収容された小さな島は、かつて日本人と島民との間に支配者と被支配者の垣根がなく仲良く生活を送っていたことから、慕われていた森隊長の名を取って「森島」と呼ばれていた。森隊長が島を去り日本へ引き揚げた後でも隊長への敬愛は途絶えることなく、ある時元首相が訪れた時には島民からバナナを「森島」へ捧げるささやかな儀式を強いられたと話された。
その他にも、相澤酋長との初対面時、酋長を偲ぶ会の話等々、元首相からはトラック及び相澤酋長に関する話が後から後から飛び出した。
幸い元首相は現在日本ラグビーフットボール協会会長を務めていて、今もラグビーとの縁が切れず、ラグビーを愛して止まず、その点でも私にとっては話しやすかった。佐々木さんにも何くれとなく気を遣っていただき、ラグビーに話を合わせていただいた。
別れ際に拙著「停年オヤジの海外武者修行」をお贈りした時、つい「つまらない本ですが」と言ってしまい「つまらない本をくれるんですか」と切り替えされてしまった。そして「私は近藤さんに『つまる本』を差し上げたい」と仰って、ラグビーについて書かれた近著「ノーサイドの心」なる書をいただいた。参った!
今日森元首相からお話を伺って、シナリオの構成を相澤酋長と森元首相、それに佐々木さんを加えた3人のお互いの関わり方をそれぞれの個性的な事象を加味して描くのも良いのではないかと思っている。お話を聞く人が増え、いろいろエピソードを伺っているうちに段々書き方も難しくなってくる。責任も重くなってきた。
それにしても議員会館が生まれ変わって、設備的にも立派な建物になり警戒も厳重になった。空港のボディチェックと変わらなくなった。地下鉄「国会議事堂前」駅から直通の地下道も通じていて、通行パスを見せさえすれば国会議事堂、議員会館、両議院事務局との通行は雨にぬれずとも可能である。けちなことを言うようであるが、国会議員のために相当なコストをかけている。ここまでやる必要があるのか、考え込んでしまった。20年近く訪れない間に、国会議員のための待遇が格段に良くなっている。今の国会議員の活動ぶりを見ていると、どう考えても少々不条理ではないかと思っている。
1458.2011年5月11日(水) 悲しく寂しい。恩師・飯田鼎先生逝く。
今朝思いがけずゼミの先輩である島田さんから訃報の連絡をいただいた。大学の恩師・飯田鼎先生がお亡くなりになったという悲しい知らせだった。昨晩ご自宅でお亡くなりになられたという。早速ご自宅へ電話して奥様から伺ったところによると、一昨日は近くの内科医へ薬をもらいに行かれたそうで、昨日はおやすみになってそのまま心臓が停止して亡くなられたということだから、苦しんだご様子はないと知り、ホッとした。享年88歳だった。
そろそろご機嫌をお伺いにお邪魔しようかなと思っていた矢先だけに、残念でならない。昨年10月に飯田会でお会いしたのが最後になってしまった。その時の会場が九段会館でこの会館も閉館する。今後どこの会場にするかと相談しなければならなかったが、昨年の会合が飯田先生のご他界と会館の閉館を持って幕引きとなることになりそうだ。
在学中から何度となく先生のお宅へお邪魔しては、議論を吹っかけて最初は随分生意気な学生と思われただろうが、ゼミ委員として活動していたので、元気の良さだけは買っていただいた気がする。ゼミ入会の面接で読書傾向について尋ねられ、河上肇の「自叙伝」「山川均自伝」「片山潜自伝」等々を読んだところだと申し上げたところ、即座に「ゼミに入って河上肇を研究してみなさい」と仰って、未熟ながらも「河上肇」を卒論のテーマとして、社会主義思想をかじるようになった。振り返ってみると社会主義思想への開眼というか、関心はこの時以来で、それが安保を引き摺ってベトナム反戦運動へ踏み出した。私の後半生は、ゼミにその根源があったと言える。
60年安保の翌年ゼミに入った私たちは、2年間ご指導いただいた中でかけがえのない仲間との友情も育むことが出来た。4年間の大学生活で忘れられないことは、1にゼミ、2に登山であり、飯田先生の下で学んだゼミこそは、大学生活を豊かにしてくれた。飯田先生は高潔なご人格で、かつ高邁な理想を抱いておられた。我々の在学時に慶応義塾労働組合委員長として、組合活動にも熱心に取り組まれ、その真摯な姿勢は若い組合員や学生に慕われていた。
人生の岐路にあった時にもいろいろ的確なサジェスチョンをいただき、良き方向へ導いていただいた。こういう立派な先生のご薫陶を受けることが出来たことは、人生における至福である。もうお会いしてご指導をいただくことが出来ないのかと考えると、言い知れず寂しい気持ちになる。
ご相談に上がると、よく話を聞いて下さって、それだけで気持ちがすっきりしたものだ。処女出版の「現代海外武者修行のすすめ」の原稿をお送りした時、句読点の置き方に丁寧なアドバイスをいただいたことが思い出されるほど、几帳面で心配りのあるお人柄だった。ゼミの会員には付き合いのある範囲内で電話とメールで葬儀式次第を連絡した。同期で巨人軍のオーナーの座に納まっている滝鼻卓雄くんには、読売新聞を通して訃報を知らせた。しばらくして電話がかかってきて御通夜に参列すると言ってくれた。久しぶりにうるさ型の「読売巨人軍オーナー」に会える。
1457.2011年5月10日(水) え~っ? 北方領土はドイツの代償だと。
昨日佐々木信也さんは、森喜朗・元首相がトラック島へ行かれて何度か相澤進酋長に会われたことがあるので、森元首相の秘書に会って話を聞けば、知られざるエピソードも聞き出せるかも知れないと仰っていた。フットワークの軽い佐々木さんが早速森元首相の秘書に電話連絡した結果、午後になって12日午後に衆議院第2会館の森元首相の部屋を訪ねるアポが取れたと佐々木さんから2度目の電話をいただいた。こう言っては先輩に失礼だが、佐々木さんのご配慮とスピーディな行動力には敬服するばかりである。
そこで私自身どうも気になっていた相澤さんの母校・湘南高在籍生徒記録を確認しようとラグビー部の後輩である加藤副校長へ電話で連絡をとってみた。加藤副校長に、名簿に掲載されていない卒業生の在籍記録を調べられるかどうかを率直に尋ねたところ、難しいということが分った。特に、私が卒業した翌年に校舎が火災により全焼して生徒の記録がすべて焼失したから余計難しいとの話だった。実際私の浪人中に私の成績資料も焼失したので、翌年大学受験の際内申書の資料がなく3年次の担任新山泰先生から、3年間の通信簿を学校へ持参提出するよう求められたことがあった。
こうなった以上勝手ながら相澤さんは中途退学したものと考え、佐々木さんや私にとっては先輩であると再確認したうえで、原稿に向かうことになる。この点について12日に佐々木さんにお会いした時にお話してみようと思う。
さて、先日朝日新聞がウィキリークスの外国公電を分析したうえで、その内容を公表したが、今日はその後続編を掲載した。これを読むと残念ながらもう日本外交は外国からまったく信頼されていないことが分る。特に前編では沖縄米軍基地移設にからむ問題が、日本というよりアメリカペースで進められ、日本では当事者同士が騙しあい、肝心な機密事項はアメリカとアメリカに組する日本の政治家の間で処理されていたことが明らかになった。
今日の外交公電はどうか。アメリカの公電は当時の自民党政権を酷評して「北方領土交渉『日本は計画も指導者も欠如』」だそうである。ボロクソである。その中で初めて知った事実は、アメリカがロシアからかなり情報を得ていたようである。「ロシア指導部は北方領土について、第2次大戦でヒトラーを支持した結果日本が払った代償で、対独戦でロシアが失った数百万の命の補償の一部だと考えている」とのメッセージにはショックを受けた。ロシアが自国民を失った大戦国への賠償をいかに同盟国とは申せ、ドイツの代わりに日本に代償をすりかえるというのは、論理的にも倫理的にもおかしいのではないか。終戦当時無力だった日本は、ならず者ソ連によって、完全に江戸の仇を長崎で討たれたわけである。それに対してわが日本外交は未だに何も言えず、黙ってただ北方領土を返せの精神論だけを繰り返し訴えても覇権国家ロシアには通用しまい。それよりアメリカにまで日ロ交渉の内容を握られ弱みまで掴まれている。これでは国家間の外交とは言えないのではないか。
どうして日本はこんなだらしない国家に成り下がったのだろうか。
1456.2011年5月9日(火) 佐々木信也さんとトラック島酋長・相澤進さんの意外な交誼
新宿の「ハイアット・リージェンシー東京」で野球解説者である佐々木信也さんと待ち合わせて昼食をともにした。トラック島の酋長だった故相澤進さんに関するエピソードを出来るだけ伺いたいと、相澤さんにとって高校の後輩?であり、プロ野球・高橋ユニオンズのチームメートだった関係から佐々木さんにお話いただく機会をお願いしたところ、快くお引き受けいただいたわけである。佐々木さんは私にとっても高校と大学の先輩であり、先輩・後輩の関係だと他人のような気がしないと仰っていただき、食事をしながら温かい雰囲気の中で2時間に亘って相澤さんに関するお話をお聞きした。
予め若干資料も準備していたのだが、佐々木さんと私が直接、間接に得た相澤さんに関する情報は必ずしも一致しない。最大の疑問は、高橋ユニオンズ入団の経緯である。佐々木さんを相澤さんが自分の所属球団へ誘ったのは、高校の後輩だから口説いたと私は相澤さんの口から直接聞いたが、佐々木さんは相澤さんから誘われた覚えはないと言われる。第1に佐々木さんは相澤さんが高校の先輩であったことをまったく知らずに、お2人が現役を引退し島へ戻り相澤さんが亡くなるほんの数年前になって知ったと仰る。もしもっと早く先輩・後輩であることを知っていれば、付き合い方が変わっていた筈だと仰った。その他にも相澤さんは私に、佐々木さんがトラック島に何遍も来られたと仰ったが、佐々木さんの仰るにはトラックに来いと誘われはしたが、1度も訪れたことがないということだった。どうも話が大分食い違っている。今や相澤さんは黄泉の国へ旅立ち、その経緯を確認しようもないが、何となく釈然としない気持ちがした。
佐々木さんは、プロ野球界で活躍出来るような相澤さんのような人が、折角湘南高へ入学したのならどうして出来たばかりの野球部に入らなかったのだろうかと率直な疑問を述べられていた。出来立てほやほやの野球部は、世評を裏切りあれよあれよという間に昭和24年夏の全国高校野球大会で優勝してしまった。佐々木さんは1年生ながら大会で大活躍して母校優勝に大きく貢献した。
だが、母校の卒業生名簿には、相澤さんの名前は記録されていない。終戦直後の混乱期で、しかも学制が変わり旧制中学から新制高校に変わった端境期ということを割り引いても、どうしてだろうかと不思議な思いで佐々木さんと首を傾げた。ことによると相澤さんは中途退学したのかも知れない。いずれにせよ言動にはこう言っては失礼かも知れないが、謎が多い。いま書きかけている相澤さんを主人公にしたドキュメントは、当初予想したのとは別の方向へ走り出しそうである。全体の構図と主人公の立場を変えなければいけないのではないかと考えている。相澤さんを主人公に考えていたが、場合によっては相澤さんと佐々木さんのお付き合いをメインテーマにすることも考えられる。どういう組み立てにするか、思案のしどころである。
それにしてもお2人はチームメートとしては格別深い付き合いはなかったようである。しかし、野球を辞めてから相澤さんがトラックへ戻り、その後日本を訪れるたびに必ず佐々木さんへ第1報を入れ、いつも会っては食事をしていたというから、佐々木さんのお人柄と配慮にチームにあまり馴染まなかった島の酋長も少しずつ惹き入れられて行ったのではないかと考えられる。
それは次の出来事からも推し量ることが出来る。相澤さんが亡くなられた2006年5月の僅か1ヶ月前に行われた千葉ロッテ・マリーンズ対福岡ソフトバンク・ホークス戦開始に先立つ始球式で、相澤元投手は1球を投じたが、このアレンジメントはすべて佐々木さんがロッテ球団に掛け合って実現させたものである。何かにつけ、相澤さんは佐々木さんを頼りにされ、佐々木さんは先輩のためにその気持ちに応えておられたのだ。まだまだ埋もれた話はいろいろあるようだが、今日の佐々木さんとの話からドキュメント全体の構成が中々難しくなったような気がしている。
ともかく佐々木さんに直接お話を伺えて良かった。佐々木さんから相澤さんについて兵頭冽・ユニオンズ元一塁手ほかの選手にも聞いてみてあげると仰っていただいた。
1455.2011年5月8日(日) 専門家の見る悲観的な原発開発
最近メールでやりとりの多い矢田健一・元中大教授が放射性物質漏れの危険に関して、いささか知識の乏しい私にいろいろ専門的情報を提供してくれる。今日も原子力の専門家である京都大学原子炉実験所・小出裕章氏に対する原発関連のインタビュー映像を紹介してくれ、小出氏がフリージャーナリストの岩上安身氏の質問に応える形の映像を‘You Tube’上で1時間20分に亘って観ることが出来た。
内容的には相変わらず難しいものだが、それでも小出氏は分り易く丁寧に解説してくれていた。小出氏の主張しているのは、突き詰めると危険な原発はもう止めるべきだということに尽きる。いくら万全を期しても機械である以上事故は必ず起きるとして、その機械を取り扱っているのは人間であり、その人間には間違いは起き得ると力説していた。大きな原発事故による破局を避けるためにも原発は直ちに止めるべきだと言われていた。氏が東電は情報をきちんと開示すべきであると強調されていた。原発推進派が言うように、代替エネルギー問題で現状から原発を失くせば電力供給量が不足するという情報は、必ずしも正しくないことを別の資料で示しながら解説してくれた。わが国の電力供給量のうち、原子力発電に約3割も依存しているというのも、東電や原発推進派から出てくる彼らにとって都合の良い情報のようである。揚水発電というこれまで知らなかった発電の無駄、しかもこれは原発供給の隙間を埋めるための電力供給のようである。原発を失くせば当然揚水発電なんてものも要らなくなる。
これまで日本のエネルギー政策、とりわけ電力問題は役人と電力会社の結託によって馴れ合いの中で行われてきたと批判的だった。従って原発開発も両者の思惑通り計画されてきた。その証拠に国策会社である電力会社は寡占状態であり、価格も需給のバランスによって決定されるものではない。それがわが国の電力料金が世界中で一番高い所以であり、裏づけとして外国との電力料金比較表を示しながら説明された。
余談かも知れないが、電力を最も消費する産業はアルミ産業で、アルミ産業はその高い電気料金のために需要が増える一方であるにも拘わらず、経営的に立ち行かず、今や国内では日本軽金属㈱一社しか、それも日軽金蒲原工場の自家発電によってしかアルミ製造を行えない厳しい状態であるとも言われた。プライベートな話で恐縮であるが、偶々妻の父親は日軽金会長、相談役を最後に同社を退いたが、アルミを生産していた蒲原工場長を務めた時期もあり、生前アルミ生産とは電力を湯水の如く消費するものだと度々聞かされたことが今更のように思い出されてくる。
今日矢田さんに紹介してもらった‘You Tube’は、的確に問題点を整理し説明した内容で、観ていて得るところが多い有意義なインタビュー映像だった。論より証拠に、アップしてから1ヶ月足らずの間に、すでに15万回超のアクセスがある。